- 「気分は下剋上 叡知の宵宮」1
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「祐樹、祐樹の言った通り、串カツ屋さんがある!」
最愛の人の咲き初めた花のような無垢な笑みと弾んだ声が、川沿いのお祭り会場に漂っていた湿度すら吹き飛ばすようで、祐樹は思わず息を深く吸い込んだ。彼は紺よりも少しだけ夜空に近い、群青の浴衣の袖から伸びた、薄紅色のしなやかな指が椅子とテーブルが併設された屋台を示しているのも、目に心地いい。
「もし、屋台がなかったら貴方をがっかりさせるだろうなと、少し心配していたのです。あって良かったです。お好きなりんご飴や綿あめは割と一般的なので心配はしていないのですが、串カツは大阪のソウルフードですから……。まあ、無ければないで通天閣辺りに行ってお店に行くプランも実は考えていました」
最愛の人のお祭りのテンションは、特別にして格別だ。子供の頃に叶わなかったことやテレビでしか見たことのないものを体験する楽しさが、普段のデートの時よりも大きいからだろう。
「通天閣は、ホテルの部屋で見た……。あの辺りが串カツ屋さんの多い場所なのか?」
知識の宮殿のような最愛の人だが、さすがにB級グルメの情報までは網羅していない。といっても祐樹も大阪にあまり馴染みはないが、患者さんとの雑談で聞いた覚えがある。主治医の祐樹には気軽に話しかけてくれる患者さんでも、香川教授の前では萎縮してしまう例はたびたび見てきた。それに久米先生は大阪の男子校に通っていたので、特に食べ物には詳しく救急救命室の凪の時間に聞かされた覚えもあった。久米先生も最愛の人の前では借りてきた猫状態になるのでそういう情報は一切遮断されているのだろう。
ただ、今の無邪気に笑う最愛の人を久米先生やかつての患者さんが見たとして同一人物とは思わないという確信があった。よく似た他人だと判断するのがせいぜいのはずだ。なにせ、無垢で無邪気な笑みを浮かべたその横顔は、朝露をまとってほころびはじめた朝顔のようだ。
こんな顔を見ることが出来るのは祐樹だけの特権だ。
「ただ、あの辺りはあまり治安がよくないとも聞いています。ほら、『例の地震』の後の特別休暇のデートの時、昼間からビールを呑んでわけの分からない演説をしていた人を梅田で見ましたよね?ああいう人が多いみたいです。久米先生は頭も良いけれども育ちも良いと評判の進学校に通っていたせいで、制服であの辺りをうろつくとカツアゲ……って、分かりますか?」
最愛の人はほんの一瞬だけ思考を巡らせる感じだった。多分知識としては知っているけれども実感は全くないという感じなのだろう。
「それは、わざとぶつかって、逆に怒ってお金を要求する犯罪行為だろう?久米先生はそんなリスクを」
精緻なバランスの取れた切れ長の目が、見開かれた。最愛の人は公立の進学校だったので縁がなかったのかもしれない。多分教師に注意喚起くらいはされていただろうけれども。
「そのリスクヘッジのために、制服の上着は駅のロッカーに入れてシャツだけで串カツを食べに行っていたらしいです。久米先生らしいエピソードですが、欲を言えば女性が喜びそうな店を探索して欲しかったです」
思わず天を仰いだのは救急救命室の凪の時間に店の選び方から歩き方の注意、デートの時の模範会話の練習にまで付き合ったからだ。
「そんなに美味しいのか?」
久米先生のカツアゲよりも串カツに気を取られている。病院では絶対に見せない姿だ。
「入りましょう」
透明なプラスチックか何かの素材で出来た、のれん状のものをくぐった。
「……本当に『二度付け禁止』と書いてある……。そして、安いのだな……」
感心したような小さな声も耳に心地いい。油の匂いとそこはかとなく香るソースが非日常といった感じだ。
「通天閣の辺りはもっと安いそうですよ?一串百円を切るような物まであるらしいです」
お店で高い安いと言うのは店員さんに失礼なので薄紅色の染まった耳朶にそっと告げた。
「お勧めコース……何本にしますか?」
落ち着きなく、珍しそうに回りを見回す最愛の人というのも珍しい。
「あの大きさなら、十本は食べられそうだ。祐樹は?」
普段よりも食べる量が多いのも心の弾みが作用しているのだろう。
「私も十本で。それとビールが美味しそうですね」
最愛の人は嬉しそうな笑みを浮かべて頷いている。浴衣の襟から伸びた素肌も薄紅色の花のように綺麗だった。
「本場では、お勧めではなく、好きな食材を選んで揚げてくれるらしいです」
最愛の人はさも重大なことを聞いたかのような表情を浮かべていて見ている祐樹も楽しくなった。注文したビールと串カツが運ばれてきて、乾杯をした。普段はシャンパンかワインなので何となく新鮮だ。ビールをあおる最愛の人の喉が艶めかしく動くのも、眩しい眺めだった。そして細く長い指が恐る恐るといった感じで串を摘まんで、テーブルに備え付けられたソースに沈ませている。
手技の時には大胆かつ華麗に動く指も目を惹くけれども、今の彼の指は何となく不器用さを醸し出しているのが珍しい。

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