• 気分は下剋上 巻き込まれ騒動75

     ……全く、今日はなぜかスマホが二度も床に落ちる。最愛の人との穏やかで静謐な日を過ごしてきたこの部屋もきっと驚いているだろうなと、呆れながら拾おうとした。しかし、最愛の人がツバメのようなしなやかさで先に拾い上げていた。
     そして画面を見た瞬間――その顔には、どの感情を選べばいいのか分からない、途方に暮れたような表情が浮かんでいた。祐樹が最愛の人の手元を覗き込もうとしたとき、即断即決の彼らしくもなく、わずかに逡巡するように視線を泳がせた。なにしろ、白くしなやかな薄紅色の指が握っているのは、あの森技官のスマホだ。下手に漏れでもしたら、最悪の場合――内閣総辞職もあり得る。それに外務省にも太いパイプを持っている森技官なだけに、あの「ザ・ドナルド」と呼ばれた大統領すら激怒するような、日米間の密約を握っていても不思議ではなかった。もしそんな情報なら、ビデオカメラの記憶力を持っている最愛の人が祐樹に見せるのを躊躇ったとしても納得できる。
     森技官は血相を変えて最愛の人に向かい、そして足元の椅子に気づかず、甲を鈍く蹴り上げた。「あ!」とも「う!」ともつかない唸り声を上げた森技官はそのまま床に手をついていた。
    「大丈夫ですか?いちおう患部を診ますね」
     祐樹だって救急救命医の端くれだ。怪我人を優先するには当然だ。最愛の人が動揺した風情で持っている森技官のスマホにも未練が残り、つい視線を固定してしまった。数秒後、祐樹の視線の先にいた森技官の姿に思わず息を飲んだ。森技官は、まるで時代劇に出てくる城下のご隠居のように椅子の上に背を丸めてちょこんと座っており、その片足を不自然に浮かせている。
    「ひどく打ち付けられましたね?患部を診たいので靴下を脱いでください」
     森技官は、とんでもないと言わんばかりに激しく頭を振った。「――血、出ていますよね。きっと。そんなの怖くて見ることなどできません」
     痛みよりも出血のほうを気にするあたりが森技官だ。最愛の人は、先ほど所定の場所に置いたと思しき救急箱を取りにキッチンから出て行った。二台のスマホは飛ぶわ、救急箱は二度目の出番だわで、普段は静謐なはずの二人の愛の巣が、あらゆる意味で非常時だった。
    「出血しているかは患部を診ないと何とも言えないですね。靴下を脱いでください」
     呉先生も恋人の容態(?)が気になったのか祐樹の背中に隠れて様子を窺っている。――そして問題のスマホはというと、最愛の人がいたテーブルに、まるで製図用の定規で測ったかのように、直角を保って置かれていた。
    「靴下……」
     言うよりも手を動かしたほうが絶対に早い。最愛の人の靴下ならともかく、なにが悲しくて病院でもないのに森技官の靴下を脱がさないといけないのだろうかと、思いつつ手早く脱がせた。
     足の甲には赤く腫れた痕と、きれいに整っていたはずの爪が、まるで折れた高級和傘のように割れていた。
    「器用にぶつけましたね。出血はたいしたことはないですよ」
     祐樹は慰めるように言ったが、森技官はかたくなに患部を見ようとしない。祐樹の声に、おずおずと背後から首を伸ばしたかと思えば、ほんの一瞬でお化けでも見たかのような顔になり、再び祐樹の背中へと引っ込んだ。
    「それが……椅子の脚が、いきなり……急所を狙ってきたのです」
     森技官は真顔で答えるが、どう見てもその姿はアルマーニを着た負傷中のコント役者でしかない。それにしても、先ほどは祐樹がコンビニ袋で作った即席氷嚢と冷えピタ、今度は足の爪が割れ甲は赤く腫れている。祐樹は信仰心など持ち合わせていないが、何かの祟りのような気もしてきた。あるいは笑いの神様が祐樹に試練を課しているのかもと本気で思ってしまった。
    「この家に、麻酔、ないですよね?」
     縋るようなその声に、祐樹は内心で肩を落とした。――かつては銀時計を胸に、最高学府の医学部を卒業したはずの男が、たかが割れた爪でこんな体たらくとは。
    「爪が割れて食い込んでいるのは一か所です。仮に、ですよ。ウチに麻酔があったとして、注射器を刺します。一回痛い目を我慢するのに差はないと思いますが?」
     そんなことも分からなくなっているとは……、最愛の人が救急箱を持って涼やかな目を驚いたように見開いている。ただ、国家機密っぽい森技官のスマホを置きっぱなしでいいのだろうかとは思ったが、最愛の人の冷静さを信じよう。
    「……もしも……許されるなら、手当て、香川教授にお願いできませんか?」 
     アルマーニの肩を落としながら、視線は一途に祐樹の最愛の人に向いていた。 

         

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  • 気分は下剋上 叡知な一日31

    「祐樹っ!」
     普段は滅多に声を荒らげることのない最愛の人が、思わず叫んだのと、路地に何かが落ちた音が同時だった。思わず下を確認したが幸いなことに無人だった。そして、その声音には、切羽詰まったような焦燥と、深く息づく愛情が入り混じっていた。その声と同時に、指先まで神経の行き届いたような、研ぎ澄まされた細身の腕が、祐樹の背を抱きとめる。その細さに反して、芯には鋼のような力が宿っていた。
    「祐樹、よかった……」
     その声は鋭さの中にもどこか紅色の響きを持ち、胸の奥に届く鈴の音のようだった。
    「ありがとうございます。――ここで転落死なんて洒落にならないですから。私だけならまだしも、貴方に、そして杉田弁護士にも迷惑が掛かります。屋上に二人きりでいる状態でしょう?しかも階下には『グレイス』がありますよね?万が一警察に『そういう関係の揉め事』とでも思われたら、貴方にまで迷惑が……」
     「かかるところでした」と言いかけた祐樹は、最愛の人の秀でた額に、玉のような汗がにじんでいるのに気づいた。どんな難手術でも顔色ひとつ変えない最愛の人が、今は確かに祐樹のことで動揺している。その事実が、祐樹の胸を静かに、しかし激しく締めつけた。胸の内を占めたのは、痛むような後悔と――それでも、なお滾るような愛しさだった。
    「――祐樹、怪我はしていないか?」
     彼は祐樹の顔を心配そうに見ている、いや診ているのかもしれない。鉄製と思しきフェンスにも、破傷風菌などが潜んでいることもあり得る。最愛の人はそれを心配してくれたのだろう。もしくは単純に手の怪我かもしれない。祐樹は大げさな動作で手を振ってみせた。
    「怪我なんてしていませんよ」
     優しく宥めるように笑った。
    「たとえ少し擦ったとしても、破傷風などは初期の処置さえきちんとすれば、ほとんど問題にはなりません」
     最愛の人の瞳に浮かぶ不安を、ひとつひとつ言葉で拭うように言葉を紡いだ。そして、もう一つの懸念を晴らそうと、無言のまま、両手をゆっくりと最愛の人へと差し出した。節ばった長い指が、山百合の花弁のように一枚ずつ反りながら開いていく。そして、再び静かに閉じる動きは、外科医としての命が今も生きていると最愛の人に告げていた。その祐樹の仕草を、息を殺して見つめていた最愛の人は――まるで大輪の紅薔薇が花弁をふるわせて吐き出したため息にように、深く、静かに安堵の息を漏らした。「ご心配をおかけして申し訳ありません」
     頭を下げると最愛の人は朝露がびっしりと宿っている白薔薇のような笑みを返してくれた、祐樹はポケットからハンカチを取り出すと、彼の額の汗を拭った。
    「凱旋帰国のあとしか知りませんが――貴方の額の汗を拭ったのは私が初めてですよね。『手術の時に汗をかかない香川教授は、すごいというか拭えなくて残念だわ』と手術室の看護師が言っていました」
     最愛の人は首を傾げている。
    「そういえば、アメリカ時代も汗を拭ってもらったことはないな。手術前に最悪の想定を済ませているので、焦ったことがないからだと思う。さっきはもうどうしていいのか分からないほど恐怖だった。しかし、祐樹が無事で本当に良かった……」
     夜に咲いている薄紅色の薔薇ようなほのかな笑みがとても綺麗だった。
    「それはともかく、貴方の初めてになるのは何だって大歓迎です」
     丁寧に拭い終えた後に、再び手を繋いで給水塔へと移動した。「フェンスとは異なって、こちらは丈夫そうですよ」
    念のために叩いて確かめた後に二人して座った。
    「祐樹……」
     首を傾げて、キスをねだる最愛の人の薄紅色の唇ではなくて、額に唇を落とした。祐樹の唇は甘い塩気を感じ取った。数えきれないほどのキスを最愛の人と交わしてきたが、こんなに甘くて――まるで夏の果実の汁が乾ききる前に似た、透き通るような苦さを孕んだ汗の味も初めてだ。額から滑らかな頬、そして唇へと唇を落としていく。
    「ご心配をおかけしたお詫びに、今日はいつも以上にゆっくりと丁寧に聡を愛しますからね」
     二人の唇に銀の細い橋がかかっては空中に消えた後に愛の言葉を紡いだ。
    「私は祐樹がしてくれることは何でも嬉しいのだ。祐樹は私が嫌だと思うことは絶対にしないだろう?だから安心して抱かれることが出来る。んっ……」


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