……全く、今日はなぜかスマホが二度も床に落ちる。最愛の人との穏やかで静謐な日を過ごしてきたこの部屋もきっと驚いているだろうなと、呆れながら拾おうとした。しかし、最愛の人がツバメのようなしなやかさで先に拾い上げていた。
そして画面を見た瞬間――その顔には、どの感情を選べばいいのか分からない、途方に暮れたような表情が浮かんでいた。祐樹が最愛の人の手元を覗き込もうとしたとき、即断即決の彼らしくもなく、わずかに逡巡するように視線を泳がせた。なにしろ、白くしなやかな薄紅色の指が握っているのは、あの森技官のスマホだ。下手に漏れでもしたら、最悪の場合――内閣総辞職もあり得る。それに外務省にも太いパイプを持っている森技官なだけに、あの「ザ・ドナルド」と呼ばれた大統領すら激怒するような、日米間の密約を握っていても不思議ではなかった。もしそんな情報なら、ビデオカメラの記憶力を持っている最愛の人が祐樹に見せるのを躊躇ったとしても納得できる。
森技官は血相を変えて最愛の人に向かい、そして足元の椅子に気づかず、甲を鈍く蹴り上げた。「あ!」とも「う!」ともつかない唸り声を上げた森技官はそのまま床に手をついていた。
「大丈夫ですか?いちおう患部を診ますね」
祐樹だって救急救命医の端くれだ。怪我人を優先するには当然だ。最愛の人が動揺した風情で持っている森技官のスマホにも未練が残り、つい視線を固定してしまった。数秒後、祐樹の視線の先にいた森技官の姿に思わず息を飲んだ。森技官は、まるで時代劇に出てくる城下のご隠居のように椅子の上に背を丸めてちょこんと座っており、その片足を不自然に浮かせている。
「ひどく打ち付けられましたね?患部を診たいので靴下を脱いでください」
森技官は、とんでもないと言わんばかりに激しく頭を振った。「――血、出ていますよね。きっと。そんなの怖くて見ることなどできません」
痛みよりも出血のほうを気にするあたりが森技官だ。最愛の人は、先ほど所定の場所に置いたと思しき救急箱を取りにキッチンから出て行った。二台のスマホは飛ぶわ、救急箱は二度目の出番だわで、普段は静謐なはずの二人の愛の巣が、あらゆる意味で非常時だった。
「出血しているかは患部を診ないと何とも言えないですね。靴下を脱いでください」
呉先生も恋人の容態(?)が気になったのか祐樹の背中に隠れて様子を窺っている。――そして問題のスマホはというと、最愛の人がいたテーブルに、まるで製図用の定規で測ったかのように、直角を保って置かれていた。
「靴下……」
言うよりも手を動かしたほうが絶対に早い。最愛の人の靴下ならともかく、なにが悲しくて病院でもないのに森技官の靴下を脱がさないといけないのだろうかと、思いつつ手早く脱がせた。
足の甲には赤く腫れた痕と、きれいに整っていたはずの爪が、まるで折れた高級和傘のように割れていた。
「器用にぶつけましたね。出血はたいしたことはないですよ」
祐樹は慰めるように言ったが、森技官はかたくなに患部を見ようとしない。祐樹の声に、おずおずと背後から首を伸ばしたかと思えば、ほんの一瞬でお化けでも見たかのような顔になり、再び祐樹の背中へと引っ込んだ。
「それが……椅子の脚が、いきなり……急所を狙ってきたのです」
森技官は真顔で答えるが、どう見てもその姿はアルマーニを着た負傷中のコント役者でしかない。それにしても、先ほどは祐樹がコンビニ袋で作った即席氷嚢と冷えピタ、今度は足の爪が割れ甲は赤く腫れている。祐樹は信仰心など持ち合わせていないが、何かの祟りのような気もしてきた。あるいは笑いの神様が祐樹に試練を課しているのかもと本気で思ってしまった。
「この家に、麻酔、ないですよね?」
縋るようなその声に、祐樹は内心で肩を落とした。――かつては銀時計を胸に、最高学府の医学部を卒業したはずの男が、たかが割れた爪でこんな体たらくとは。
「爪が割れて食い込んでいるのは一か所です。仮に、ですよ。ウチに麻酔があったとして、注射器を刺します。一回痛い目を我慢するのに差はないと思いますが?」
そんなことも分からなくなっているとは……、最愛の人が救急箱を持って涼やかな目を驚いたように見開いている。ただ、国家機密っぽい森技官のスマホを置きっぱなしでいいのだろうかとは思ったが、最愛の人の冷静さを信じよう。
「……もしも……許されるなら、手当て、香川教授にお願いできませんか?」
アルマーニの肩を落としながら、視線は一途に祐樹の最愛の人に向いていた。

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