- 「気分は下剋上 叡知の宵宮」1
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「あの日は、京都市内の店が自粛して灯かりを最小限にするのです。炎がより鮮明に見えるようにとの配慮みたいですが。だから、この前の屋上の艶っぽさを追求するなら」
屋上で色香だけをまとっていた肢体――と続けたかったが、エスカレーターに乗っている前後の人の耳を考慮に入れて二人にしか分からない愛の暗号を告げた。あの夜の記憶が不意に蘇ったのか、最愛の人の白皙の頬に、ひとひらの薄紅が静かに咲いた。誰にも悟られぬよう、ただ視線で触れ合いながら。
「――そしてさらに幽玄めいた美を堪能するには、『陰翳礼讃』の谷崎潤一郎に倣ってロウソクの灯を用いるべきだと私は思うのです」
最愛の人にだけ届くよう祐樹の声はひそやかに絞られていた。といっても、前後の人に何を話しているのかまでは分からないだろうが、暗号めいた言葉を解読する人がいるかもしれないので念のためだ。
「幽玄の美」……それはあの夜、屋上でさらけ出したその身こそがそうだと察したのだろうか。紅潮した頬に、なお深く、染み入るような熱が差した。エスカレーターが目的の階に着き、二人して和食器が並べられたフロアを歩き始めた。
「祐樹、蚊取り線香はいらないのか?」
百貨店のスタッフ以外さほど人がいないのは、普段使いではないからだろう。これなら普通の音量で話しても聞き耳を立てる人はいない。
「蚊取り線香ですか?」
漆塗りの大きな盃を、先ほどの「暗号」でほのかに紅く染まった指先がそっと持ち上げる。何の変哲もない黒の器に、蔓薔薇の赤が絡みつくようで、どこか艶めいて見えた。
「あの屋上は『グレイス』の客もそうなのですが、愛の語らいの場所として提供されているのです。特に『グレイス』は店内での口説きが禁じられていますから、お酒を奢って話がいい具合に盛り上がったら、自然と『屋上へ行こうか』という流れになります」
最愛の人は、涼やかな切れ長の目をわずかに見開いた。その眼差しには「そんな決まりがあったのか」という素直な驚きがかすかに含まれているようだった。最愛の人が「グレイス」を訪れたのは三回だけだ。一回目は祐樹と初めて結ばれた夜、杉田弁護士から「皆がこぞって香川教授に奢っている」という電話が入り、祐樹は病院から慌てふためいて駆け付けた。二回目以降は祐樹も一緒だったので、下心のある客は全て退けた。一回目も皆が牽制しあっていたのを祐樹はこの目で見ている。だから誰も「屋上へ」などと言い出せなかったのだろう。
そして、最愛の人の眼差しに、問いただしたくてもできない種類のもどかしさが、一つ大きな石を投げ込んだ時のように広がったように思えた。――あの場所に、祐樹は誰か綺麗な人と一緒に過ごしたのではないか。最愛の人は、そんなことをふと想像したのかもしれない。
「あの屋上に誘おうと思ったのは、貴方が初めてなのです」
目で、そして言葉で真実を伝えた。
「そうか……」
その一言の奥にある想いを、最愛の人の瞳が語っていた。オパールのように揺らめく光を宿したその視線には、幾重にも折り重なる感情が異なる色を放ち、静謐な煌めきを湛えていた。
「――他の階の方々も、ホステスさんが気分転換に、とか、さまざまな用途で使うと聞いています。だから、蚊の駆除は徹底されているはずです。……だから、いらないかと」
語尾にやや間があったのは、祐樹自身ふと気づいたからだった。最愛の人にとって、蚊取り線香の香りは祐樹そのものだったという可能性を。救急救命室で助けられなかった命の重さを引きずるように、祐樹は一人煙をまといに行く。タバコと、蚊取り線香と夜の湿気。最愛の人の知る祐樹の「凪」の時間だった病院でシャワーを浴びるとはいえ、きっと消えない香りが髪にでもついていたのだろう。だからこそ――その匂いがなくなることに、最愛の人は寂しさを感じていたのだろう。
「ただ、改装工事中に客への配慮をそこまでしないように思います。だから用意していきましょう、蚊取り線香」
最愛の人の眼差しがそっと変わった。嬉しさを余すところなく言葉に出来ない人だと、祐樹は知っている。それでも、今のその瞳は、柔らかな金色を宿したトパーズのように、微かに、しかし確かに煌めいていた。胸の奥で望んでいたものを、ふいに手渡されたときの、戸惑いに似た幸福。それがこの眼差しの奥に、静かに灯っているように祐樹は感じた。
「あ、祐樹、LINEが……」
スラックスのポケットから流れるような動作でスマホを取り出し、指先で軽くタップした。
「病院からですか?」
もしそうだったら、このデートはここで強制終了だ。残念だが、患者さんの命には代えられない。
「いや、長岡先生からだ。ほら」
頬を緩ませながら、どこか弾むような仕草で、祐樹の方へそっと画面を向けてきた。

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