「気分は下剋上 月見2025」17

月見2025【完】
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This entry is part 17 of 25 in the series お月見 2025

 いや、この時間はお月見を楽しむべきだ。自然薯で「その気」になるのは森技官と同じだと思うと、なおさら抑えようと思った。
「松の木と月という組み合わせも日本的で素晴らしいですね」
 下心を押し殺して冴え冴えと光る満月を眺めた。祐樹は柚子が大好きなので自然薯に絡まった黒味噌の中に入っているのがとても嬉しい。
「本当に綺麗な満月だな。祐樹は救急救命室から帰宅するときには存分に眺められるだろうけれども、私はなかなか見る機会もなくて」
 赤いギアマンの盃が、薄紅色の唇に映えてとても綺麗だった。
「いえ、確かに月は出ていますが、貴方の待つ部屋に一秒でも早く帰りたくて月などは目に入りませんね」
 本音を言うと、彼は月よりも綺麗な笑みを浮かべた。
「そうなのか?それは嬉しいな」
 そんなことを話しているとドアがノックされた。
「大変遅くなりまして申し訳ありません。お酒をお持ちいたしました」
 先ほどの仲居さんの声がした。やはり、彼を情動の赴くまま押し倒さなくてよかったと安堵した。祐樹の内心を知らない彼は、怜悧な笑みを浮かべて「どうぞ」と告げた。
「――そういえば、先週の水曜日に、三好さんが百貨店で貴方を見たそうですよ?何でもエルメスの新作のバッグ……プリオンでしたっけ?それが入荷していないか店舗に見にいく途中だったらしいのですが」
 仲居さんの耳を気にしてわざと何でもない話題を選んだ。最愛の人は小さな笑い声を立てている。その声が鈴虫の鳴き声よりも煌めいているように祐樹には思えた。たしかに、プリオンではないような気がする。いくらなんでも、天下のエルメスが狂牛病の原因となるタンパク質の名前をバッグにつけるとは思えない。
「それは多分ブリドンのことだと思う。馬具の『くつわ』という意味のフランス語だ――あ、ありがとうございます。月見だんごもこんなに……。それにススキまでついてくるのですね。お月見に相応しいです」
 仲居さんが持ってきてくれたのは、漆塗りの菊のかたちをした皿のようなものに月見だんごが鎮座し、その上にススキが飾ってあった。たしか菊の節句は九月九日だったような気がするので、季節にも月見にも合っている点がこの旅館のいいところだろう。仲居さんはにっこりと笑みを浮かべて二人の間に月見だんご一式を置くと、二人の盃にお酒を注いでくれた。
「ちなみに、『くつわ』とはどの部分なのですか?」
 馬と全く縁のない祐樹にはさっぱり分からない。競馬は大学時代に同級生に誘われ、なけなしの一万円を溶かした痛い思い出があって、それ以来行っていない。また、大学には馬術部というものもあったが、何かとお金がかかると聞いたので近づいていない。
「簡単に言えば、馬の口にくわえさせる金属製の部分だな」
 馬自体しげしげと見たこともない祐樹にはさっぱりイメージ出来ないけれども、そういうものがあるということで納得しようと思った。
「そうなのですか……。ひとつ勉強になりました。三好さんが言うには『最近のヴィトンのバッグは、持ち手――取っ手の部分が細くて、重い荷物は怖くて入れられない』らしいのです。だから、その……プリオンじゃなくてブリドンでしたっけ?」
 最愛の人が頷くのを確認して話を続けた。彼は祐樹がさしてブランドに興味を持っていないことは知っているが、名詞を二度間違えるのはさすがに恥ずかしい。ブリドン――何だか呉先生が聞いたら「牛丼じゃなくブリの丼なんですか?でも、とても美味しそうですね」と言いそうな名前だなと思った祐樹も、「ブリ丼」と覚えようと思った。
「そういう、もう少ししっかりしたバッグを買いたいみたいで。もちろん店舗にはなかったらしいですが。――ありがとうございました」
 仲居さんが部屋を出ようとしていたので挨拶をした。
「品薄だと聞いているので店舗にはないだろうな。どうしても欲しい場合は長岡先生経由で頼むのが最適解だと思う。ただ、二百万程度だったと思うので、長岡先生はカード一括払いをしていると聞いている。だから一か月の間にそのお金を用意しなければならない」
 え?と思った。エルメスが高価なのは知っているが、たかがバッグに二百万円……?それは軽自動車が軽く買える値段だ。長岡先生の金銭感覚が祐樹とはゼロの数が二つほど異なるのは知っていたが、まさか三好看護師までがそうだったとは……。まあ、彼女たちが何を買おうと、祐樹の財布には関係ないので自由だが。
「三好さんなら『長岡先生のお手を煩わすなんて論外です』と言うでしょうね」
 長岡先生は、三千万円という空恐ろしい値段のバッグを、よりにもよって京都市指定のゴミ袋に入れて持っていたという過去がある。雨に濡れたら大変だという理由で、だ。あれもエルメスのシベリアだかヒマラヤという名前のバーキンだったような気がする。
 看護師たちはそういう長岡先生には対抗心ではなく憧れの目で見ていると聞いている。独身の看護師にブランド好きは多いのも事実で看護師同士張り合っているらしいが、誰も長岡先生には敵わないと自覚出来ているのは好ましい判断だ。
「――そのときに、貴方を見かけたらしいですよ。『教授は、きっと医療従事者視点での病院改革のことか、新しい術式のことを考えていらっしゃったと思います』と言っていましたが?」
 最愛の人は可笑しそうな笑みを薄紅色の唇に浮かべていた。

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