- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」1
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- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」教授視点 1
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「お疲れ様です」
祐樹が医局のドアをスライドさせると、最愛の人の姿がまず目に飛び込んできた。目の前にいるわけでも、そして、あの澄んだ綺麗な目を祐樹に向けているわけでもないにも関わらず。
定時上がりの医師はそろそろ帰宅する時間だというのに、最愛の人の白衣はクリーニングから返ってきたばかりのように皺ひとつない。怜悧な顔で遠藤先生のパソコンのモニターを物凄い速さでタイピングをしている。横に置いてある書類の束には赤ペンで推敲の跡があった。あの端整な字は最愛の人の筆跡だ。きっと遠藤先生の論文の手直しをしているのだろう。
最愛の人が祐樹の声を聞いてこちらを見、そして三秒だけ視線を絡めほのかに笑みを浮かべた。医局の皆は「例の地震」とその後の共著の出版などで公私ともに仲がいいという認識なので、この程度のアイコンタクトは問題ない。そして温厚そうな顔に仏様のような笑みを浮かべている黒木准教授が医局全体を見渡していた。
「田中先生、報告すべきことはありますか?」
答えは期待していない形式的な問いだった。患者さんの容態が急変したなら、真っ先に報告するのが医局のセオリーなので、それがないということは万事が順調だということだ。
「いえ、特にないです」
以前は教授執務室にいることが多かった最愛の人は、遠藤先生の忘れていたモルガン・スタンレーの口座の残高が円安でたいそうなお金が入った。最愛の人が指摘しなければ、留学資金としてアメリカの銀行に口座を開いたご両親のお金など忘れ果てて、タンス預金ならぬタンス口座と化してしまっていた。そして、三億円とかいう不動産投資がどれだけ危険かアドバイスした件がきっかけで、医局員が、最愛の人に寄せる期待に応えて――手技の話はもちろんのこと、その他の話題のために降りてくることが多くなった。医局の皆が遠巻きにせず、彼の周りに集まるのはとてもいい変化だと祐樹は捉えていた。
彼が医局にいると、程よい緊張と確かな尊敬の念が医局員全体に広がって、雰囲気は祐樹が望んだ通りになっている。以前は執務室に居て手術の腕だけで医局を支配していた。だが、今の最愛の人は違う。
「先月、REITとETF、比率を変えたのは正解だった」「あれ、利回り7%って本当ですか?」
囁くような声があちこちで飛び交う。もちろん、朝の医局に資産運用の話題などは一切出ない。手術スタッフに選ばれた医師を中心に、空気はいつも張りつめていた。しかし、夕方、手術も終わり、最愛の人が医局に顔を出す頃になると、どこか安心が生まれる。
「そうですねREITで収益を得る構造は比較的シンプルです。しかし、金利が上がる局面では、高配当が相対的に下がり、価格が下落しやすくなります。その点金は利回りこそありませんが、物価上昇に対して価値を維持しやすいですし、有事の防衛資産としてお勧めです。ただし、決断は自己責任でお願いします」
怜悧で端整な顔に、ごく淡く、ひとひらの笑みが浮かんだ。それは柔らかく、しかし感情を押し出す類のものではない。静かに相手の理解を信じ、「判断を委ねる」という誠意を滲ませたかのような表情だった。祐樹は、そうなんだ……。としか聞いていなかった。最愛の人の言葉は、祐樹にとっては、もはや空気や呼吸のように当たり前に存在するものだった。しかし、医局の他の医師達の中にはさっとメモを取るものもいれば、患者情報の入っていない私物のタブレットに、そっと内容を入力する者もいた。最愛の人の一言が、知識としてではなく「判断材料」として共有されていく様子を、祐樹はどこか不思議な気持ちで見つめていた。柏木先生が愛想笑いと真剣さを混ぜた表情で遠藤先生ににじり寄った。
「香川……教授のおかげで、得したんだろ?だったら――医局全体に、奢れよな。あのドル建ての口座、両親が留学生活費や学費を入れてたってやつ……教授が言わなきゃ、ずっと放置されたまま、ただの紙切れ――いや数字が書いてあるメモ帳と変わらなかったんじゃないか?」
柏木先生は親しそうに肩を叩いた。
「え?何を奢るんですか?」
遠藤先生が眼鏡の奥で目をぱちくりさせている。
「何って――酒と食事だよ。メンツ全員に決まってんだろ。祝・資産発掘、だ」
柏木先生の口調は冗談半分、しかし目は本気だと祐樹は見ていた。医局にいる他の医師達は「頑張れ!柏木医局長」といった空気で柏木先生と遠藤先生の掛け合いを注視している。無責任なヤジを飛ばす者はいないが、その分全員が楽しそうだ。
祐樹は遠藤先生のデスクに座っている最愛の人に「大丈夫でしょうか?」という意味を込めて、わずかに眉を寄せる。彼はその視線に即座に気づくと、純白の白衣に包まれた細身の肩を、すっと竦めてみせた。――多分この人は、遠藤先生が困ったら、代わりに全員分の勘定を払うつもりなのだろう。声はなくとも、祐樹には分かった。最愛の人の肩の動きは誰にでもできる仕草ではなかった。あくまでも静かに、目立たず、医局を背負うものとして――重さの引き受け方に、品があった。

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