- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」1
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「今日は搬送されてきた患者さんがいなかったのはラッキーでしたね」
救急救命室にやや遅れて入った祐樹たちだったが、皆が手持ち無沙汰といった様子で、最愛の人が杉田師長にうまく取りなしてくれたのか、怒鳴られることはなかった。医療ドラマでは常に忙しい医療現場として描かれる救急救命だが、暇を持て余す時と、野戦病院さながらといった時がある。祐樹が最も楽だったのは一人も搬送されず、休憩室で八時間も熟睡した日だった。
「そうだな。法律さまの金切り声は鼓膜だけじゃなくて精神までえぐってくるからな。ま、救急救命のベテランだから言うことは尤もなんだが……。久米先生は今ごろアクアマリン姫とデートか。まさかと思うが、香川……教授が花粉を落とした花束を持ってそこいらの居酒屋に行っていないか心配だ」
あ!と思った。悪意の花粉に気を取られていて、久米先生のデートコースを聞いていなかった。最愛の人が両腕に抱えるほどの純白の花束は彼の清廉な印象をよりいっそう強めていて、目に焼き付いていた。その後、久米先生に手渡されていたが、そちらは全く覚えていない。
「一応、注意喚起しておくか……」
こういう凪の時間を使って、祐樹と柏木先生はデートコースの選定から言うべき言葉まで久米先生に教え込んでいた。何しろ久米先生は坂道が険しい清水寺にも平気でエスコートするような人だ。女性はハイヒールを履いている可能性など考えてもいないのは男子校育ちだからだろう。柏木先生はコーヒーの缶を置いてスマホを弄っている。
「良かった……。ほら、これ」
最愛の人の純白の白衣によく似合う百合の花束を脳内で再生していた祐樹に柏木先生のスマホが差し出された。画像はリッツカールトン京都と思しき、京都の町屋の意匠を取り入れた、和洋折衷の豪華でありながらどこか懐かしさのある店内と、アクアマリンに似た透明な煌めきを放つ岡田看護師の笑顔と鼻の下を長くした久米先生の満月のような顔が写っていた。ちなみに岡田看護師にアクアマリン姫というあだ名をたてまつったのは祐樹だった。
その彼女は薄い水色の服を着ていて、長岡先生が気付かなければオレンジ色の花粉がひどく目立ったはずだと、未然に防げたことに安堵した。
「これも俺たちの努力の賜物だよな。こういう店なら花束も預かってくれるし……っと、出番だな」
杉田師長が救急車からの電話に出ている。
「交通事故。バイクと乗用車の追突。怪我人は七人ね。いいわよ。どんどん運んで!!」
大学病院は比較的軽傷の患者は運ばれないのが一般的だが、杉田師長は「来るもの拒まず」がモットーだ。そして彼女は明らかにキャパオーバーだと思えるような場合でも手早い処置と神業のベッドコントロールで何とかするのが杉田師長だ。
「ここでは私が法律よ!!」と言い放つだけの実力と胆力は医師すら黙らせる。そして、彼女の一喝でそれぞれが動き出す様子も、見ていて心地よかった。祐樹も即座に臨戦態勢に入った。
「はい、救急救命室。心筋梗塞の疑いですって?もちろん受け入れ可能よ!到着は五分後ね!冷や汗びっしょりなのね、了解」
早口で甲高い声は別に杉田師長が緊張しているわけではなくて、彼女の癖のようなものだ。
「柏木先生は交通事故、田中先生は心筋梗塞の疑いありの患者さんに対応ね!!」
二人とも心臓は専門だが、柏木先生はいずれここが救急救命センターに昇格した時に常駐のセンター長に内定している。責任者は北教授だが、彼は救急救命医として世界的な知名度を持っているし、災害が起これば現地に駆けつけて指揮を執るタイプなので、救急救命室の実質的なリーダーは杉田師長だ。しかし、センターになった場合、いくら「出島」と呼ばれていて独自のルールで回っている救急救命でも医師の責任者が必要なのは言うまでもない。センター長は准教授並みの待遇となるため、香川外科の医局長よりも処遇は上になる。その代わり責任を負う立場になるので、色々な症例を診させておこうというのが杉田師長の判断なのだろう。
「了解です」
一斉に声が上がっているのも、今まで停滞していた空気が一気に張りつめていくようで祐樹も気持ちを引き締めた。すぐに救急車のサイレンが複数、立て続けに聞こえてきた。救急車用の出入り口で待機する。
「心肺停止です。蘇生術は試みましたが」
バイクに乗っていたと思われる二十代の若者が、まず運ばれてきた。
「私がいる限り絶対に死なせないから!あとは任せて。柏木先生、お願い」
慌ただしくストレッチャーに載せられた患者さんが室内に運ばれた。その後、続々と六台の救急車が到着し、スタッフの動きも的確ながらも、現場の慌ただしさは一層増していった。そろそろ祐樹が担当する予定の患者さんが運ばれてくるだろうなと、心をさらに引き締めた。

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