「気分は下剋上 知らぬふりの距離」63

「気分は下剋上 知らぬふりの距離」
📖 初めて読む方へ: 登場人物相関図はこちら
This entry is part 90 of 100 in the series 知らぬふりの距離

「香川教授、兵頭さんの件ですが、抑うつ状態が悪化しました。目に光がなく、呼びかけにも全く反応しません」
 この場にいる看護師たちにも十分聞こえるように大きな声を出した。
『分かった。すぐに下りていく。兵頭さんの周りには誰かついているのか?ナースステーションに連絡は?』
 怜悧で落ち着いた声を電話越しに聞いて祐樹も緊張が和らぐようだった。祐樹が医局からではなくナースステーションから電話したのは、彼女たちに即座に情報が伝わるという打算もあった。案の定、祐樹と最愛の人との通話に、ここにいる看護師全員が注視している。
「ただならぬ異変を感じたので、広瀬看護師に付き添ってもらっています。またナースステーションからこの電話をかけています」
 端的に返答を返すと即座に彼の声が聞こえた。
『祐樹、それは大変良い対処だ。さて、看護師には、兵頭さんの病室を変えるよう伝えてくれ。『例の病室』とだけ言えば彼女達はきっと分かる。また、全看護師に対して自死の恐れあり。厳重注意との通達を私名義で出しておいてくれ。では新しい病室で会おう』
 新しい病室?内心で首をひねったが、そんなことを考えている暇はない。
「教授通達が出ました。兵頭さんの抑うつが悪化し、病室を変えるとのことです」
 看護師たちは「ああ、あの病室ね」と言いたげな視線を彼女たち同士で交わしている。「あの病室とは何ですか?」と聞きたかったが今はそれどころではない。
「自死のおそれがあるため、全員が注意を払うようにとのことです」
 その場にいた看護師たちは全員が緊張した様子で「分かりました」と言っていた。
「広瀬が兵頭さんに付き添っているのですね。だったら私が向かいます」
 三好看護師がきっぱりと言って祐樹の後ろを歩いている。
「病室を変えるということは、あの『開かずの間』ですよね」
 三好看護師の小さな声に思わず振り返った。
「開かずの間とは?」
 三好看護師と歩調を合わせた。この旧態依然とした大学病院では医師の後ろを看護師が歩くことになっているが、そんなしきたりなどは何の役にも立たないので無視しよう。
「教授が設けるよう指示なさった病室です。窓は強化ガラスなので開かず、ナースステーションの正面にあります。患者さん――この場合は兵頭さん――がドアから出てきたとしても、必ず誰かが気付きます。いえ、ドアには外側から鍵がかかるようになっており、施錠すれば中からも出られません」
 「いつの間に?」と最愛の人の先見の明に驚きを隠せなかった。
「そんな病室があったのですね」
 祐樹は主治医を務める患者さんの病室は把握しているが、部屋番号と名前でしか認識していない。つまりは患者さんを点として把握し、病棟全体は俯瞰して見ていない。逆に看護師は全部の病室を回るので、「常にこの病室だけ誰も使っていないということは特別なのね。だったら『開かずの間』と呼びましょう」――そんな共通認識が自然に生まれていたのだろう。
 兵頭さんの病室に行くと広瀬看護師がホッとしたように微かな笑みを浮かべている。
「田中先生、あれからずっと同じ状態です。先輩も来てくださってとても心強いです」
 三好看護師に厳しく指導してもらっていると祐樹は彼女から聞いたが頼りになる先輩としてリスペクトしているような感じだった。
「兵頭さん、病室を移りますからね。歩けますか?」
 兵頭さんは相変わらず無表情だったが、少しだけ顔を動かした。全然そうは見えないが頷いたつもりなのだろうと腕を取ってベッドから降りてもらった。黒木准教授の友達・山先生が言っていたという、「心は風船みたいなもの」という説に従えば、兵頭さんの風船には一割ほどの空気が残っているように思えた。
 前を三好看護師が歩き、「すみません、急を要しますので、廊下の隅に寄ってください」と威厳のある口調で通行人の医師や看護師、そして患者さんを左右にさばいていく。広瀬さんは念のためという感じで兵頭さんを後ろから見ていた。
「え?」
 いきなりすさまじい力で祐樹の手が振り払われ、次の瞬間、思いきり横に突き飛ばされた。痛いのはもちろんだが、目の前に見えているのは階段で、あそこまで滑っていくと階段からもんどりうって落ちると思うと冷や汗が出た。「とりあえず廊下に着地しなければ」と思い、体勢を整えた瞬間、祐樹の右半身に「ポヨン」とした感触が走った。何だかトランポリンの上に落ちたような感触だったがそんなことを思っていたのは一瞬だった。立ち上がって兵頭さんの姿を探す。
「久米先生、申し訳ありません。でも助かりました」
 階段から上がってきた久米先生と鉢合わせし、そして何かの弾みか、久米先生が意図的にかまでは分からないが、祐樹の身体のクッションになってくれたらしい。
「うわっ、これは俺たちの出番ですね!」
 久米先生の後ろから、祐樹と同年代と思しきポロシャツを着た男性が声を上げ、その隣のTシャツ姿の男性が頷いた。どちらも筋肉の厚さが服の上から分かる。兵頭さんが三好看護師を突き飛ばした瞬間、謎の男性たちが鮮やかな動きで取り押さえた。

―――――

もしお時間許せば、下のバナーを二つ、ぽちっとしていただけたら嬉しいです。
そのひと手間が、思っている以上に大きな力になります。

にほんブログ村 BL・GL・TLブログ BL小説へ
にほんブログ村

小説(BL)ランキング
小説(BL)ランキング

PVアクセスランキング にほんブログ村

PR ここから下は広告です

私が実際に使ってよかったものをピックアップしています

Series Navigation<< 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」62「気分は下剋上 知らぬふりの距離」64 >>

コメント

タイトルとURLをコピーしました