「気分は下剋上 知らぬふりの距離」60

「気分は下剋上 知らぬふりの距離」
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This entry is part 87 of 100 in the series 知らぬふりの距離

 他の科はどうか知らないが、香川外科の場合、ほとんどの患者さんが彼の手技を慕って国内外から集まってくる。広瀬看護師たちに対してセクハラをした場合、その手術が受けられないという結果になるのだから、「読んでなかった」「知らなかった」という言い訳をする人も多いだろう。
「確かにそうですね。教授の手術を切望してこの病院に入院なさる患者さんが多いですから、転院は絶対に避けたいはずです」
 最愛の人は満開の花のような笑みを浮かべて祐樹を見ている。
「最近は田中先生に是非とも執刀してほしいという患者さんも増えている」
 黒木准教授も満足そうな笑みを浮かべ深く首肯してくれた。
「その現状を踏まえて考えたのだが――」
 怜悧で理知的な表情に戻った彼がいったん言葉を切った。
「『入院誓約書』は患者さんの押印が必要なので、それを提出した場合、法的には読んでいようと読んでいまいと、同意したという根拠になる。つまり法的拘束力を持つことになる。私としてはこちらに医師・看護師に対するセクシュアルハラスメント禁止の条項を付け加えたほうがいいと思いますが、お二人の判断は?」
 看護師はともかく医師にも必要かとも思った。実際問題として長岡先生からはそんな報告はない。ああ、そうか、長岡先生は完全に裏方に回っていて、手術前説明のときに必要があれば患者さんやそのご家族の前に出ていく。ただその席には、執刀医である最愛の人や、時々は祐樹も必ず列席するのでいわば衆人環視の中だ。しかも家族の前でセクハラをする人間はいない。いたとすれば相当頭のネジが緩い人間だろう。もしくは、世の中の流れに疎くて、例えば「貴女のブラのサイズはCですか。それともDですか?」と聞くことがセクハラだと認識していない人だ。昔のテレビドラマでは、会社の重役会議でタバコの煙がもうもうと立ちこめているシーンがあったが、今ではそんな会議は存在しない。ただ、香川外科には比較的高齢の患者さんが多い関係上、世の中の風潮から取り残されて自分の価値観が全てだと思っている人も少なくない。だからこそ、彼も念のため医師も含めたのだろう。他の科には女性医師も多数存在するし、彼女たちを守る意図もあるに違いない。
「素晴らしいですな」
 黒木准教授の賛辞に祐樹も深く頷いた。それを執務デスクから見ている最愛の人も青い花のような笑みを浮かべている。
 「入院誓約書」があることも、そしてそれを医師が確認することも知っており、内容は頭に入っていたが、実務としては扱わない。それは事務方の仕事であり、そこまで考えが及ばなかったというのは多分、言い訳だろう。
「教授が条項案をお考えになるのは適任かと思います。たしか、司法試験に受かってらっしゃいますよね?」
 祐樹の発言に黒木准教授はぜい肉でたるんだ顎を落としそうになっている。最愛の人は自分のことをひけらかさないタイプなので、准教授は初耳だったに違いない。最愛の人は白衣に包まれた、やや細い肩を竦めている。
「それは、医師国家試験対策のときに、息抜きのつもりで受験したら合格しただけで、司法研修所に通っていない。だから、法曹資格は持っていない素人だ」
 最愛の人は事もなげに言っているが、医師国家試験の膨大な知識を全て問われるテスト対策の「息抜き」に法律の勉強をするというのが祐樹には理解出来ないし、それは黒木准教授も同様のようで、太い首を感心したような、そして呆れたように振っている。ゲイバー「グレイス」の常連客でもある杉田弁護士が「一年間は司法研修所所属ということになって、色々体験するんだよ。ここだけの話、新幹線の『のぞみ号』の運転、とはいえ安定走行に入った後だが。それもさせてくれた」と言っていた。新幹線の運転なんて祐樹には全く分からないが、「そんなことをさせてもいいのか、JR!?」と思った記憶がある。その一年を経て、裁判官や検察官、そして弁護士になるらしい。
「田中先生が言われるように適任ですな。そしてセクシュアルハラスメントを受けた看護師の心の傷を理解している田中先生が、その補佐にあたるというのも妥当だと考えています」
 広瀬看護師に話を聞いたことを黒木准教授はお見通しのようだった。まあ、祐樹は一介の医局員として看護師の話はよく聞くということを知っている准教授の類推かも知れなかったが。
「それはよかった。ゆ…田中先生はこれから救急救命室に行く予定だったはずだが、久米先生に代わってもらうようにこちらで調整しておく」
 最愛の人は祐樹だけではなく医局員のスケジュールを把握している。まあ、医局の長としては当然だろうが、医局長に丸投げして意外と把握していない教授もいると聞いている。
「分かりました。では、病棟巡りをしたのち、こちらに戻ってくるということでよろしいでしょうか?」
 別に救急救命室勤務は嫌なわけではない。むしろ、あの緊張感は大好きだ。しかし、最愛の人と二人きりの時間は宝石のように貴重だ。たとえそれがセクハラ禁止条項作成だったとしても同様だ。そう考えてふと気になったことがあった。
「すみません、確認なのですが」
 セクハラやパワハラは断固として拒否するという最愛の人の判断は正しい。しかし……。

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