精神科は、当たり前だが精神病を患った人が入院するので、「錯乱した患者に殴りかかられ、眼鏡を壊された医師など珍しくない」と呉先生に聞いた。しかし、望んでもいないのに、局部を触られていい気持ちがするわけもないことくらいは想像出来る。そして、広瀬さんの話も、頭では「それはひどい」と思う。最愛の人の言うとおり根絶させなければならない問題なのも理解できるが、メンズナースの気持ちまでは祐樹の想像力ではカバーできない。
「そうだ、夏輝に聞いてみよう」と思いついた。彼なら性的な目で見られることも多かったはずだ。ちなみに、夏輝よりもゲイバー「グレイス」で客の目を強く惹く最愛の人は、視線に自信がある祐樹が睨んで怯ませるし、彼自身そういう視線にものすごく鈍感だ。だから、あまり参考にはならない。
「それはさておき、准教授の用件を伺いましょう」
最愛の人が居ずまいを正した。
「田中先生が主治医を務める兵頭さんの件なのですが、三日前から三好看護師との会話が激減、食事も摂っていない状態です。そして先ほど田中先生が兵頭さんのベッドに行ったところ無反応だった。そうですよね?田中先生」
黒木准教授が祐樹に話を振ってきたが、祐樹の報告書をそのままなぞった内容だったので付け加える点はない。
「その通りです。昨日私がベッドに行ったときには返答も普通だったので、見落としてしまいました。申し訳ありません」
細く綺麗な指を形のいい顎に当てて考え込んでいる最愛の人に頭を下げた。
「田中先生に落ち度があるとは思えません。ここだけの話、看護師には素の自分を見せて主治医に対しては取り繕って会話するタイプの患者さんです。私はともかく教授が、今の今兵頭さんの病室にいらっしゃったとしたら、きっと普通に話しますよ」
黒木准教授のフォローに二人の向かい側に座った最愛の人は首を傾げている。教授として医局の責任を負う覚悟を持っている人だが、権威があるとは思っていない。
「それはともかく、兵頭さんの件については精神科の医師の見解を取り入れて手術をすべきかどうか慎重に判断すべきだと主治医の私は考えます」
最愛の人が黒木准教授に「それはどういう意味ですか?」と真顔で聞く前に話を進めようと祐樹は思った。そういう鈍感さが彼の魅力の一つでもあると祐樹は思っているけれども、臨時教授会の件を含めて彼の仕事は山のようにあるのだから横道に逸れる時間がもったいない。
「それはそうだな。黒木准教授も同じ意見でしょうか?」
最愛の人は年上の准教授に敬語で接している。准教授が喜んで「香川教授の女房役」に徹しているのは、こういうところも大きいのだろうと祐樹は思っていた。
「田中先生の提案通りだと思います。ただ、いささか『生きた化石』のような精神科には不安も感じますね。そういえば真殿教授の名前が看護部長との会話の中で出ていましたが?」
「心は風船のようなもの」と言っていた黒木准教授の友人が京都の山間部に左遷されて以来、黒木准教授は真殿教授の動向を密かに真殿教授の動向を追っていたに違いない。そしてセクハラではなく、パワハラの話題を最愛の人と看護部長がしていたときに真殿教授の話が出た。その詳しいことが知りたいのだろう。
「精神科では真殿教授によるパワーハラスメント事例が多く目撃されています。しかし、パワーハラスメント防止委員に、あろうことか真殿教授も名前を連ねています。つまり、報告者、もしくは被害者の名前を事前に知ることが出来るのです。報復人事として系列病院に飛ばされた医師や看護師が実際にいるので、精神科の医局では『委員会は無駄だ。耐え切れなくなったら辞表を出すしかない』という閉塞した空気に囲まれているというのが現状です」
黒木准教授は珍しく怒りの表情を温和な顔に浮かべている。――そういえば、森技官も呉「教授」誕生に密かに動いている。精神科の医局内で、唯一の良心派である梶原医師以外にも准教授の友人も医局に招聘したらどうだろう?きっと優秀な精神科医だろうから。後でその医師の名前と今勤務している病院名を聞こうと頭の中に太字でメモをした。
「そういう形骸化した委員会ではなく、臨時教授会では第三者機関によるパワーハラスメント対策案を提出するつもりです。それならば、その窓口に言った人間の匿名性は担保されますよね?そして大学病院特有の常識ではなく、世間一般の常識を適用させます。そういうことを臨時教授会で提案するつもりです」
怜悧で落ち着いた声が教授執務室の豪華な調度に凛として響き渡った。黒木樹教授は感無量といったような表情だ。きっとその友人も真殿教授のパワハラを受けていたに違いない。
「そうですか。それはいいですね。香川教授は決してそのようなことはなさいませんが、他科では教授によるパワハラが稀に起こるとも聞いています。精神科特有の問題でもなさそうですね。臨時教授会で少しでも風通しがいい病院になることを切に望みます。さて、兵頭さんの件ですが」
黒木准教授は咳払いをした。
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