最愛の人の電話の相手は病院長ではなさそうだが、病院上層部の人間だということが分かった。そして内科の内田教授・小児科の浜田教授のように普段から親しくしている人ではないのは口調から分かる。黒木准教授は多分気付かないほどの微かな差異を、誰よりも恋人を見ている祐樹だからこそピンと来た。
「そうなのですね。メンズナースまでもが被害を訴えていると。しかし、真殿教授には怖くて言えないのですね。それは非常によく分かります。部長、その臨時教授会ではパワーハラスメントについても――いえ、部長。それ以降も恒常化しているという話は漏れ聞いています。つまり、もう一本釘を刺すべきだと考えます」
最愛の人が不快そうに眉根を寄せて話している。電話の相手ではなく、精神科の真殿教授についての気持ちからだろう。そして部長というのは看護部長ではないかと思った。
「分かりました。では、私も出来るだけ多くの教授に真意を伝えます。セクシュアルハラスメントもパワーハラスメントもこの病院から根絶するのが私の願いです。では失礼します」
最愛の人が受話器を丁寧に置いた。
「准教授、ゆ…田中先生お待たせして申し訳ないです。どうしても出ないとならない電話でしたので」
最愛の人は椅子から立って軽く頭を下げ、この時間になってもシワ一つない白衣の裾を翻して祐樹の座っている椅子へと近づいてきた。
「看護部長からの電話だったのでしょう?あの女傑を怒らせるようなことは病院長でもしませんから」
黒木准教授も祐樹と同じことを考えていたに違いない。そして、なんというか年を取ってとろとろと眠るネコのような看護部長がそんなに怖いと知り、ひとつ病院のトリビアが増えた思いだった。とはいえ、あちらは全ての看護師を統括する人で、一介の医局員である祐樹との接点はない。見かけたことは何度もあるが、話したのは数回で、しかも世間話だった。
「ゆ…田中先生、看護部長が『感謝している』と伝言して欲しいと言っていた。――ああ、ありがとうございます」
最後の言葉は最愛の人用のコーヒーを運んできた秘書に向けた言葉だ。
「もしかして、看護師に対する患者さんのセクハラ問題ですか?」
それしか考えられないが、祐樹にとっては雲の上の人がどうしてこんな短時間でその情報を入手したのだろう?准教授執務室に向かうために柏木先生とエレベーター待ちをしていたときの会話だ。そこには複数の看護師がいたし、その数が増えていったのも覚えている。
「感謝ですか?『入院のしおり』に看護師に対してセクハラ禁止という条項を盛り込もうというアイデアは確かに出しましたが、看護部長に感謝されるとは思ってもいませんでした」
最愛の人は、満開のカサブランカのような優雅な風情でコーヒーを嗜んでいる。
「ゆ…田中先生の発言を聞いていた看護師がLINEグループで拡散したらしい。彼女たちが様々なグループに参加しているのは、ゆ…田中先生も知っているだろう?」
二人の会話を黒木准教授が温和な目に強い共感の光があった。
「それは存じていますが、雲上人の看護部長にまで知るところとなるとは想定外です」
最愛の人は薄い唇に笑みの花を咲かせている。
「ゆ…田中先生の言葉を聞いた看護師たちが一致団結し、『なるべく偉い人にこの件を取り上げてもらおう』という活動を始めたらしい。師長クラス以上にまで皆が直訴し、結果的に看護部長まで話が届いたということだ。以前から由々しき問題だと思っていた部長がこの機運に乗じ、『臨時教授会を病院長に掛け合う』ので協力を要請された」
看護部長まで上り詰めるだけのことはあるなと感心した。普段の看護部長はまるで陽だまりで眠っているネコのようなのに、こういうときには鉄壁の布陣を敷くタイプなのだろう。どこかで読んだ日光東照宮のどこかにある「眠り猫」の彫刻――それは単に眠っているだけではなく、戦闘態勢にいつでも入れるような体勢らしい。看護部長もきっとそういう人なのだろう。そして、教授会では滅多に発言しないのに、誰よりも発言力を持つ最愛の人に根回しの電話を掛けてきたのだろう。
「メンズナースは精神科に多いですが、彼らも被害に遭っているのですか?」
「例の地震」のとき、ご遺体を人目のつかない場所まで黙々運んでいた彼らは、柔道などの有段者が多いと聞いている。
「そうだ。女性患者が局部を触ったり無理やり抱き着いてきたりするらしい」
……祐樹の認識は広瀬看護師の話を元にしていたため、女性が被害に遭うものだと思っていた。
「そうなのですね。それは認識を改めたほうが良さそうです。私はてっきり女性だけが対象だと思っていたのでメンズナースは想定外でした」
それでなくとも男女雇用機会均等法があるというのに看護師はまだまだ女性が多い。
「セクシュアルハラスメントは男女関係ないのだが、逆に男性のほうが声を上げにくいらしい。看護部長が精神科の師長から聞いた話によると、『田中先生のお考えを承って救われた気持ちです。女性だけでなく、我々も救われた気分です』と涙ぐみながら語ったそうだ」
そこまで深刻だとは思わなかった。
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