「私が主治医を務めている兵頭さんの件なのですが」
黒木准教授は流石、香川教授の女房役を自他ともに認めているだけあって、即座に名前と顔が一致したらしい。祐樹などは自分が主治医か執刀医でない患者さんの名前と顔は一致しないというのに、こういう点は見習わなければならないなと思いつつ話を進める。
「三好看護師から『三日前から挨拶もしなくなって、食欲も落ちている』という報告がありました。私も先ほど病室で確かめたのですが、返答もない状態です。専門医ではもちろんないので、これは私の私見ですがウツ状態かと思います。私ももっと早く気づくべきでした。主治医として毎日話はしていたのですが、そのときには、受け答えもはっきりしていたのです。その点は忸怩たる思いです」
祐樹は深々と頭を下げた。
「田中先生、私は精神科に親しい友人がいました。とはいっても今は美山町にある病院に勤務しています」
黒木准教授は痛ましいような表情だった。祐樹は地図上でしか知らないが確かかなりの山奥だったような気がする。黒木准教授と親しいということは温和な性格なのだろうなと思う。そして何故そんな山奥の病院に移ったのかは察することができた。真殿教授に対して長年我慢してきたが、ついに限界に達して言い返してしまったのだろう。そしてお定まりの左遷の憂き目に遭ったに違いない。呉先生も真殿教授と怒鳴り合いの大喧嘩をしたらしいが、恋人の森技官に対しても怒るときはかなりの剣幕だ。だからそのすさまじさは類推できる。きっと准教授の親しい友人は積もり積もったものが爆発してしまったのだろう。
「その友人が言っていました。ウツ状態というのは、心が風船だと仮定すると、その風船の空気が抜けたということだと。兵頭さんの心の風船は、完全に空っぽになったのではなく、いくらかの空気が残っている状態なのでしょう。私が把握している限り兵頭さんは権威に弱いタイプです。総回診のときにそう思いました。香川教授に対してはあからさまにへりくだっていて、私にはその八掛けくらいでした。そういう人は主治医の田中先生がベッドに来た場合心の中の風船の残りの空気を振り絞って応対し――今どきこういう言い方は差別的ですが、三好看護師に対しては遠慮がなく素の自分を見せたのでしょうね。我々は心臓外科医です。精神科の医師ならば、気付くのが当たり前なのでしょうが、専門が異なるのです。ですから、田中先生が自分を責める必要はありません。可及的速やかに専門医に診てもらい、手術可能かどうか見解を聞くべきでしょうね。しかし、柔軟に対応してくれそうな精神科の医師となると……」
黒木准教授は、外科医にしては理想的な肉厚の指を、たるんだ顎に寄せている。最愛の人の細い指は、祐樹は見ていて飽きないのだけれども外科医として小さなハンディキャップだ。ただ彼は指の力で補ってあまりあるというのが実情だ。それはそうと、ウツ状態を心の風船にたとえた医師の件で黒木准教授も真殿教授に対して含むところがあるのだろう。または、祐樹と同じ情報を黒木准教授も異なったルートで入手しているのかもしれない。祐樹が清水研修医に聞いたのは、手に負えない患者さんをあろうことか系列病院に押し付けているという衝撃の事実だ。いうまでもなく大学病院は最高の医療を約束する場所なので、手に負えない患者さんというのは理論上存在しない。現実問題として悪性新生物科などでは、手術職人の異名をとる桜木先生が執刀しても予後が悪ければ、命を落とすことはある。しかし、桜木先生以外のどんな医師が執刀しても結果は多分同じで、「最高の医療」という点は確かだ。
「今、めきめきと評判を上げている不定愁訴外来の呉先生はどうでしょうか?パリ大学でしたか?そこの学会の演者に選ばれるなんて、救急救命の北教授以来の快挙ですよね。若手の精神科の医師たちも呉先生にこっそり教えを乞いに行っているというウワサです」
柏木先生の提案に黒木准教授は我が意を得たりといったように太い眉を上げている。
――若手の医師たちが教えを乞いに行っているという話は、いわゆる呉「教授」待望論者の清水研修医からは聞いていない。清水研修医は所属こそ精神科だが、救急救命室のほうが水を得た魚のように活躍している。実家は京都一の私立病院で、斎藤病院長は清水院長の親友かつ戦友だと聞いている。清水研修医には兄がいて、先に外科を専攻したせいで、消去法の末、精神科を選んだ。しかし、「例の地震」のときに最愛の人が率いる救急救命チームに回され外科医としての天稟を見せていた。その縁で救急救命室に来るようになったが、「あの」香川教授から認められた息子として清水院長も大喜びで全面協力してくれている。だから祐樹と二人きりになった凪の時間に精神科への不満を口にする一方で、そういう明るい話は聞いていない。いったい何故なのだろう?
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