「医局内の医師ならそれこそ医局長の柏木先生や、それでも被害が続くようなら香川教授からの厳重注意で鎮火はするでしょう。香川教授はそこまでなさらないと思いますが、例の瞬間湯沸かし器のような教授の場合、僻地の病院に左遷されることになりますよね。私の把握している限り、香川外科から去りたいと思っている医局員は皆無です。ウチの病院で教授に逆らった場合、どこかに飛ばされるというのが常識ですので効果は絶大だと思います」
柏木先生は驚いたように祐樹を見ている。この時間のエレベーターは各駅停車ならぬ各階停止なので、祐樹たちが待っているホールになかなか辿りつかない。
「流石は『香川教授の懐刀』と呼ばれている田中先生だな。俺には思いつかなかった。香川…教授の性格をよく見ている。あい――いや彼は自分に厳しく他人に優しいタイプだ」
元同級生のよしみというものだろうか、教授職を「あいつ」呼ばわりしかけて咄嗟に言い換えたのは流石だった。その程度で祐樹は怒らないが、顔見知りの他科の医師達も聞いているので迂闊な発言をした場合、病院内の噂になることを柏木先生もよく知っているのだろう。そして、最愛の人は医局の医師が不祥事を起こしたときは、その当事者を責めるよりも先に自分の至らなさについてマリアナ海溝よりも深く落ち込んで一人で悩むタイプだ。だからこそ祐樹が医局員に先に釘を刺しておいて彼の精神の防波堤になると決めている。それが愛する者の務めだし、ましてや生涯を共に歩むパートナーとしての誓いを交わしたのだからなおさらだ。
「しかし」
祐樹の手は勝手に唇を引っ張っていた。最愛の人が「祐樹の唇はとても柔らかくて気持ちがいい」と褒めてくれるが、考えごとをするときにこうする癖があることを最愛の人の指摘で自覚した。
「――患者さんはそういう手段が取れないですよね。いっそのこと、『入院のしおり』の注意事項に書き加えるのもいいかもしれないですね。『看護師は専門的な知識を持ったスペシャリストです。その専門家を尊重しないかたは、発覚しだい転院をお勧めする場合もあります』とか」
祐樹の思いつきに柏木先生は深く頷いていた。
「ウチの科に入院する患者さんは、香川…教授や最近では田中先生の手術を受けたくて集まっているからな。転院となると、どちらも不可能になる。だから、とても効果的だな」
柏木先生は最愛の人と同級生で大学の頃はわりと仲が良かったらしい。凱旋帰国当初はポジションの違いに戸惑って距離を置いていたが、最近は時々飲みに行っていると聞いている。その時には大学時代のように香川と呼び捨てで呼び合っているのだろう。二人の仲の良さは、友人がさほどいない最愛の人にとっては歓迎すべきことなので、「今夜、祐樹は救急救命室だろう。だから柏木先生と飲みに行く」と彼から告げられたときには笑顔で頷いている。とはいえ、柏木先生も医局長と救急救命室の兼務だし、救急救命室が救急救命センターに昇格したあかつきにはセンター長に内定している。その関係上そうたびたびというわけではない。センターに昇格しない理由は、「赤字を拡大するだけだ」と主張する事務局長の強硬な反対によるものだ。それはそうなのだが、一般企業と異なって大学病院には公器という役割もある。赤字部門は切り捨てというのは公器としての役割を放棄するのと同じだ。
だからこそ、医師たちは「医療従事者視点での病院改革」を目指す最愛の人が病院長の座に就くことを切望している。
「ウチの科だけなら『入院のしおり』の改訂は楽なんだが、病院全体となるとな……」
柏木先生が常識人らしい感想を言った。
「そんなことでしょうか?その一文が病院全体の不利益になるとは全く思いません。だから、事務局から来る『入院のしおり』をこっそり破棄してウチの科だけで」
柏木先生が祐樹の肩をツンツンと突いている。見回すと、医師達の目と耳がこちらに集中していた。壁に耳あり――というのが大学病院だが、口うるさい事務局長の耳に入らなければ何の問題もないと思って話していたのだが、柏木先生はどうやら違ったようだ。
「田中先生、整形外科・医局長の角田と申します。こちらは菱田です」
二人の医師が友好的な笑みを浮かべて頭を下げている。整形外科と心臓外科は連携することがなかったので、祐樹は全く知らなかった。縦割り社会でもある大学病院にはよくあることだ。
「お噂はかねがねうかがっていましたが、先ほどからの先生のご高説を失礼ながら聞き耳を立てておりました。ウチの科でも患者さんの看護師へのセクシャル・ハラスメント行為が問題になっておりまして」
いや、医師だけでなく暇を持て余した患者さんだっているのに、そこまで赤裸々に語っていいのだろうかと祐樹は、逆に不安になった。ただ、男性患者さんは首を竦めたりこっそりとこの場から退散しようとしていたりしていた。角田先生はそれを見越して大きな声で言ったのかもしれない。医局長というからにはそれなりのキャリアを積んでいる。
「角田先生でしたか?眼鏡がないのでまるっきり印象が変わってしまってご挨拶が遅れました」
柏木先生は医局長会議で角田先生と顔見知りなのだろう。何故か笑いを必死にこらえながら挨拶をしている。何故必死に笑いをかみ殺しているのか気になった。
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