「気分は下剋上 知らぬふりの距離」5

「気分は下剋上 知らぬふりの距離]
This entry is part 5 of 23 in the series 知らぬふりの距離

「薔薇の花束や、この百合に込められた悪意は私でも説明出来ますが、未来の嫁姑問題に関しては、正直自信がありません。独身者には荷が重いですし、説得力にも欠けます。そういうのに詳しいのは柏木先生ではないでしょうか?祐樹、確か彼も救急救命室勤務だったはずなので、その前に、こちらに呼んで欲しい」
 最愛の人の言葉に祐樹も深く頷いた。
「ああ、それよりも小さなハサミかピンセットはありますか?」
 長岡先生は,最愛の人の言葉に我が意を得たりとばかりに微笑んで、デスクの抽斗ひきだしを順番に開けている。たぶん誰かに言って持ってきてもらったのだろうが、それだと保管場所は覚えているのではないかとツッコミたかった。
 かすかなノックの音がしたのち、神妙そうな顔をした久米先生がしおしおと入ってきた。
「香川教授、そして田中先生まで、わざわざご足労頂いて申し訳ありません」
 深々と頭を下げている。久米先生は、祐樹と二人ならボケてツッコまれ、頭を軽く叩かれて「ひどいです」までが「様式美」だ。そのお約束の中にぬくもりがある。しかし、最愛の人を前にすると、畏怖と敬意が先に立ち、冗談も言えずに萎縮してしまう。この席では最愛の人が主導権を持って久米先生に挨拶を返すのが病院のローカルルールだ。しかし、最愛の人は長岡先生が「発掘」したピンセットを持ち、百合から花粉部分のオレンジ色の部分を流麗な手つきで取り除いている。その鮮やかな仕草に目を奪われる。
「この百合の花粉は服についたらまず取れませんわよ。そうですわよね?教授?」
 長岡先生が重い沈黙に耐えかねたように口紅を薄く塗った唇を開いた。最愛の人がティッシュに落としたオレンジ色の花粉を、純白の白衣の裾の裏側にそっと触れさせている。
「この部分でしたら目立たないでしょう。これを拭っても、叩いてもほら」
 確かに最愛の人がオレンジ色の部分をテッシュで拭っても、軽く叩いても健在だった。これほどまでに吸着力が凄いとは思ってもいなかった祐樹も目を見開いてしまった。
「普通、花束をもらったら、胸に抱えますよね?だったら、こんな裾の裏側ではなくて、目立つ場所にオレンジ色の染みができるはずです」
 久米先生は、最愛の人の具体的な説明で事態の深刻さをやっと自覚したようだった。祐樹のLINEに「とりあえず長岡先生の個室に行けばいいんだな?」という柏木先生の返信がきたのを最愛の人と長岡先生に見せた。
 最愛の人は一瞬だけ眼差しに笑みの花を咲かせたような一瞥を祐樹に送り、その後は、怜悧さと厳しさを込めた真顔に戻った。
「――そんな、母もきっと悪気があってしたことではないと思うのですが」
 久米先生がおどおどと目を泳がせながら言っている。
「悪気はない、ですか……?それを岡田看護師に言うのですか?」
 長岡先生は、なまじ整った顔が無表情で逆に怖い。
「言ってはダメなんですか?」
 泣きそうな目で祐樹を見ている。いや、そんな目で見られてもと思いながら口を開いた。
「久米先生、悪気がなかったら、何をしても良いのですか?たとえば、私が久米先生のお母様を突き落としたとしますよね?その時に『すみません、悪気はなくて……不注意で』と謝れば許して下さるのですか?」
 久米先生は返答に窮したのか酸欠の金魚みたいに口をパクパクさせているが、言葉が出ない。
「悪気がなかった……。しかし、薔薇の棘つきのままの花束、そして今回は百合の花粉付き……これは故意ではないですか?お母様はフラワーアレンジメントの先生ですよね?花に対する知識は我々よりも豊富だと考えるのが妥当ではないでしょうか?悪気はあると考えるのが自然でしょう。きっと岡田看護師も同じように考えるでしょうね」
 怜悧な声が淡々と響いているのが逆に怖いのだろう。久米先生はまるっとした肩を竦ませている。
「田中先生、『婚約者』さんに対して田中先生のお母様はどんな言動で臨まれるのですか?」
 祐樹は、事務局の女性やナースたちには「商社勤務の総合職の女性と結婚前提で付き合っている」と公言している。バレンタインデーのようなお祭り騒ぎのときは別にして告白されるのが面倒なのでバリアのつもりだった。それが長岡先生の耳に入ったのだろう。
「ウチの母ですか?『祐樹の言うことよりも、婚約者の言い分が絶対に正しい。だから、私は婚約者の肩を持つ』とか言っていますね。『お付き合いしていて、困ったことがあったら、まずは私に相談してちょうだいね』と婚約者に言っています」
 長岡先生は安心したような笑みを浮かべて頷いている。彼女は「婚約者」が外でもない、最愛の人であることを知っていて、心の底から気遣ってくれている。
 最愛の人はセロハンテープを使って白衣の裾につけた百合の花粉の上をトントンと叩いているが、ややオレンジが薄くなった程度で完全に落としきれていない。アクアマリン姫こと岡田看護師がデートにどんな服装で現れるかまでは分からないが、白っぽい服なら胸元が大惨事になっていたはずだ。看護師同士の陰湿な嫌がらせの愚痴を聞いてはいたが、嫁姑というのはさらに「笑顔の裏に棘」――そういえば、薔薇も棘付きのまま渡した前科もあった。そんな壮絶なバトルを繰り広げるものらしい。最愛の人が無表情なのは祐樹の「婚約者」が自分のことだと知っているからだろう。
「あのう、私はどうすれば……?」

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