執刀医も兼ねている祐樹は患者さんとの長い時間のコミュニケーションは不可能なので、移動の時間も時短を心がけている。
「田中先生、三分お時間宜しいですか?」
三好看護師が小さな声で祐樹を呼び止めた。一般的な会社に在籍したことはないのでよく知らないが、「三分」と言いながらも実際は三十分も仕事のことを話すこともあると聞いている。しかし、香川外科の場合は時間を区切った場合その時間内に会話が終わるのが不文律だ。
「兵頭さんの件ですか?」
三好看護師は頷いて廊下の隅に視線を送った。そのアイコンタクトに従って人の気配のない場所まで移動する。
「三日前から口数が少ないなと思っていたのです。それに食事も半分以上残すようになっていました。今朝は『お早うございます』と言ったのですが入院した当初はにこやかに『お早うございます』と返してくださったのに何の返答もなく、ただ空中の一点を見つめていました。そして、男性ならお分かりかと思いますが、広瀬さんを見る目って皆が輝きますよね?」
広瀬さんは顔もスタイルも抜群のナースだ。とはいえ、本人はいわゆる「女の武器」を使うこともなく職務に勤しんでいるし浮いたウワサもない。祐樹はどんなナイスバディも興味はないが、患者さんとの雑談ではよく広瀬さんの話題が出る理由を頭では理解している。
「ウチは初老の男性の入院患者さんも多いですから、広瀬さんは目の保養だという話は聞いています」
三好看護師は深刻そうな表情だった。
「その広瀬を見ても、何だか観葉植物がそこにあるといった感じでぼんやりと眺めていました」
思わず眉を寄せてしまった。柏木先生が祐樹に注意喚起をしたときよりも事態は深刻だ。
「つまり彼は性欲めいたものまでなくなってしまったのですか。睡眠はどうなのですか?」
ウツは食欲・性欲・睡眠欲がなくなるという程度は精神科にさほど詳しくない祐樹も知っていた。また、共用スペースでは誰が聞いているか分からないので、患者さんの固有名詞は使わないのも医局のルールで、三好看護師もその例にならっているのだろう。
「二日前の宿直の日に病棟を回ったのですが、彼はベッドの上に座っていました。『全然眠くないんです』と仰っていました。気になって昨夜の宿直のナースにも聞いたのですが、病室を抜け出して、自販機が置いてあるスペースの椅子にぼんやりとした感じで座っていたらしく、ベッドに誘導したと言っていました」
それはかなり深刻な事態だ。
「手術は一週間後の予定です。手術の可否を含めて教授と相談したいと思います。三好さんには釈迦に説法でしょうが、ウツの患者さんは希死念慮、つまり」
専門性に特化した大学病院なので専攻が異なれば知らないことのほうが多い。だから三好看護師が精神科の知識をどれだけ持っているか知らないので知識を測りたい。
「はい。発作的に自死を企てるということですよね。ナースステーションの皆にも注意するようにと強く言っておきます。では香川教授の判断をお待ちしていますね」
祐樹にお辞儀をして足早に去って行った。時計を見たらきっちり三分だったのは流石だ。最愛の人に報告する前に祐樹の目で診ておこうと廊下を歩んだ。
「兵頭さん、お加減いかがですか?」
声をかけても反応はない。これは厄介だなと思いながらベッドに近づいた。顔を見ると無表情・無反応だった。祐樹の顔を見てはいるようだったが、表情もどんよりとしている。返答がないというのは精神的な面で容態が悪いということだろう。枕もとのバイタルは安定していて身体面では手術に差支えはないものの、こういう精神状態の患者さんに手術をして良いかは祐樹には分からない。
「ご気分はいかがですか?」
本当に聞こえているのか分からない反応を見て思案した。
「また参りますね」
敢えて笑顔を浮かべて告げ病室を後にした。心臓外科とはいえ、最愛の人の十八番は心臓バイパス術なので必然的に手術を受けて生活の質が劇的に回復し退院する患者さんが圧倒的だ。だから心臓病=死と隣り合わせという深刻さは、ここでは比較的薄い。他の大学病院ではもっと暗鬱な雰囲気が漂っている、と厚労省の委員会で知り合った心臓外科医が言っていた。
医局に戻ると柏木先生が近づいてきた。
「兵頭さん、どうだった?」
柏木先生も心配そうな表情だ。
「私の挨拶が聞こえているのかいないかも分からなかったです。完全な無反応でした。それに三好看護師が食事もあまり摂っていないことや、夜間も眠れていないこと、そして、入院時には広瀬看護師の美貌に鼻の下を伸ばしていたようですが、今は観葉植物を見るような目だそうです」
柏木先生の表情もさらに深刻さを増している。
「まずは黒木准教授に報告したほうがいいかと思うのですが、医局長のご意見はいかがですか?」
親しい柏木先生を医局長と呼んだのは事態の深刻さを伝えるためだ。
「ちなみに三好さんには自殺に注意して欲しいと要請してあります」
柏木先生はきっかり五秒黙った後に椅子から立ち上がった。
「食欲の件も電子カルテに入力しているだろうな?」
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