「気分は下剋上 知らぬふりの距離」4

「気分は下剋上 知らぬふりの距離]
This entry is part 4 of 23 in the series 知らぬふりの距離

「それで、祐樹と私に何かご用ですか?」
 長岡先生の個室のある階は人通りが極端に少ない。教授執務階だと教授に呼び出された医師が、うなだれたり真っ青な顔でドアの前に立っていたりする。彼女は最愛の人が、凱旋帰国した時に「大学病院にどの程度のわがままが通じるか」という試金石も兼ねて「心臓外科」に内科の優秀な医師を連れて帰りたい」と言ったら、すんなり通り、病院側も彼女のために個室まで用意してくれたと聞いている。
 長岡先生は最愛の人と祐樹の仲を応援してくれている病院では数少ない人の一人だ。秘密を知っている人が少ないほど漏洩のリスクも低くなるので、これ以上最愛の人と祐樹の真の関係を知る人を増やすつもりもなかった。最愛の人が「祐樹」と呼んだのは人の気配が全くなかったからだった。
「それはご覧になれば、すぐに分かります」
 長岡先生が個室を開けると、予想に反して整理整頓が行き届いていた。きっと過去、内田教授の論文に思いっきりコーヒーを零してしまって、それに懲りた内田教授は、医局員やナースに命じて長岡先生のこの部屋の片づけに派遣しているからだろう。といっても、デスクの上にマイセンとジノリのマグカップに半分ほどコーヒーとも紅茶とも……さらに言えばココアにも見えなくない液体が入っているのが彼女らしい。
「コーヒーか何か飲まれます?」
 彼女のコーヒーは、豆だけは一流なのに、どうしてコーヒーの味ではなくて紅茶の味がするのだろう?と心の底から不思議な液体を淹れてくれる。
「いえ、これから救急救命室に行かないとなりませんので」
 理由としては少し苦しいと自覚して拒絶の意を伝えると、鷹揚な性格の彼女はおっとりと頷いた。そういえば、この部屋に入ってきた時から百合の花の芳香が漂っていた。花瓶も、そして花もないのにと個室を見回した。最愛の人も同じ香りを察知したのか不審そうな表情だった。
「田中先生、そのロッカーを開けてくださいませんか?」
 特に断る理由もないので彼女の言うとおりにした。百合の花の香りが濃くなったと思った瞬間に英字新聞で包まれた大輪の白い百合の花束が現れた。
「綺麗な百合ですね。しかし、これが何か?」
 十分と時間を区切って呼び出されている以上、今日の長岡先生の目的はこの花束だろう。
「祐樹、そのオレンジ色の花粉に触れたらだめだ!」
 先ほどから、この百合は何かが違うと思っていたが、祐樹が最愛の人に花束を贈るとき、カサブランカなどの白い百合にオレンジ色の花粉など見られなかった。
「香川教授のおっしゃる通りです。百合の花粉は粒子が細かいので服などについたら大変ですの。ですから、花屋さんは店頭に並べる前に切ってしまいます」
 長岡先生が説明をしてくれたが、この百合の花束は花屋で買ってきたものではないということなのだろうか。それにしては、英字新聞で包まれ、その上に透明なセロファンのようなもので覆われている。最愛の人が注意してくれなかったらオレンジ色の花粉には気づかず服につけてしまったかも知れない。
「実はこの花束は、朝、久米先生から預かりました。医局を含む病棟階には置けないからと。そして脳外科の岡田看護師とのデートをする時間まで置いて欲しいとのことでした」
 確かに大学病院では花束などは持ち込み不可だ。アレルギーを持つ患者さんもいるし、生花や水に含まれる細菌やカビ・微生物が免疫力の低下した患者さんにとって感染源になる可能性などを考慮して。だから久米先生は患者さんの来ない長岡先生の個室に目を付けたのだろう。
「しかし、これは花屋で買った花束ではないのですよね?」
 祐樹の質問に頷く長岡先生は、微笑の輪郭を保ったまま、目の奥だけが別人のように鋭く光っている。
「久米先生のお母様はお庭にお花を咲かせるのがご趣味だそうで、そしてご自宅でフラワーアレンジメントのお教室もなさっているようです。そのお母様から『可愛い未来のお嫁さんに渡してね』とこれを手渡されたそうですの」
 最愛の人も怜悧な眼差しに沈痛な色を宿している。
「フラワーアレンジメントの先生ならば、百合の花の花粉がやっかいなことも当然ご存知ですよね……」
 最愛の人は人間の悪意が苦手な人だ。
「つまり、久米先生が岡田看護師に渡したら彼女の手や服にオレンジ色の花粉がつくという嫌がらせですか……?」
 久米先生のお母様が脳外科のアクアマリン姫こと岡田看護師にいい印象を持っていないのは知っている。彼女がいわゆる良家のお嬢様ではなく看護師だからという理由で。
「そうだと思います。英字新聞などのラッピングはいかにも花屋さんで買ったという偽装なのだと思います。朝に久米先生にお聞きしたのですが、以前は薔薇もお母様経由で贈ったらしいです。棘つきのまま……。私だけだと久米先生も納得なさらないでしょうからお二人をお呼びいたしましたのよ」
 それは、看護師たちの話によく出てくる、姑による嫁いびりの前段階なのだろう。薔薇の花の棘も花屋さんではきちんと切って売っているのは、最愛の人に贈った経験上よく知っていた。
「久米先生も呼んでいるのですか?」
 そういえば医局にいなかったなと。医局の呑み会の話なら、最もはしゃぎそうな久米先生がいなかったことに、ようやく気づいた。
「はい。今呼びますわね」
 長岡先生がスマホを操作している。

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