- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」1
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- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」15
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」教授視点 1
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- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」教授視点 3
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- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」18
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最愛の人は長岡先生のことを、どこか困った妹として見ていることは知っている。もちろん、内田教授が「是非ウチの医局で准教授を務めてもらいたい」と熱烈なオファーを送るほど優秀な内科医という実力を認めた上での話だが。そして彼女は完璧な投薬コントロールで香川外科の一同の尊敬と感謝の念を集めている。
だから彼女のマンションの部屋が、まるで竜巻が通り抜けた後のような有様だとしても、それを私生活の一端として静かに受け入れるのが最愛の人だ。きっとこのどこから見てもお金に困っていない、ある意味浮世離れした彼女に「私は『ツール・ジャルダン』を希望しますわ」とでも言うと予想したのは当たり前のような気がした。
「そうなのですか?喜んで参加します。一人で食べるよりも皆様とご一緒した方がお食事も美味しいでしょうから」
長岡先生は優雅で品のある笑みを浮かべながらそう答えた。きっとこの医局では、最愛の人と祐樹を除く全員が、「彼女は格式の高いレストランで、メニューにない料理をさらりと注文しているに違いない」と、そんなふうに思っているのだろう。実際は――「さとうのごはん」で作った卵かけご飯に、お湯を注ぐだけの「料亭の味」と書かれた味噌汁が関の山なのだが、その種明かしは、言わぬが花というものだ。
ただ、皆はきっと「ローマの休日」の王女様がジェラートを食べてはしゃいでいたように長岡先生も「あえて」定食屋兼居酒屋に行きたいと言ったのだろう、そう思っているに違いない。
「柏木先生、日時が決まりましたら教えてくださいね。それはそうと……、香川教授、田中先生十分ほどお時間よろしいでしょうか?」
真顔に変わった長岡先生の様子に、祐樹は何か重大なことが起きたのだと直感し、ちらりと時計に目をやった。――そろそろ救急救命室へ向かう時間ではあるが、それでもその程度の猶予はある。最愛の人もすっと表情を引き締めて頷いていた。定時上がりの彼には、充分すぎるほどの時間がある。
三人で廊下を歩いた。
「教授はすっかり医局の長らしくなられて、本当に嬉しいですわ。医局の皆が教授を慕って集まっていたでしょう?あれこそが、リーダーの資質というものです」
最愛の人は、細く長い首をわずかに傾げながら、そうなのだろうかと言わんばかりの困惑したような微笑を浮かべている。しかし、祐樹は、長岡先生のその言葉が素直に嬉しかった。祐樹も今日の医局の雰囲気を見て同じことを考えていた。祐樹一人の、恋は盲目状態からくる独断と偏見ではなくて、長岡先生も同じ感想を持ったということは、冷静な第三者が見てもそう思えるという証拠だ。来るべき病院長選挙では医局一丸となって彼を後押ししなければならない――いや、したいと思う、彼は病院長、しかも内田教授が掲げる「医療従事者視点からの病院改革のリーダー」に相応しい。内田教授の「改革の闘士」としての実力は祐樹もよく知っているが、数字に弱いという欠点がある。だから「経費削減」を有難いお経のように唱える事務局長のコロンビア大学のMBAホルダーとしての知識に押し負けてしまう。その点最愛の人は数字にも、そして経済・経営にも造詣が深い。経済に関してはアメリカ時代に培った資産を極めて評判のいいPBに任せて運用しているが、任せっぱなしではなく、色々聞いていると言っていたし、病院長選挙に出馬を決めてからは、PBの担当者に病院の経営の専門家を紹介してもらいレクチャーを受けていると聞いている。
凱旋帰国以降、優秀な外科医としての魅力は誰もが認めるところだ。しかし、それ以上の私的な魅惑……そのすべては祐樹一人だけが知っていればいい。
「教授、去年でしたかしら……、スーパーでカットしたスイカを食べて、種ごと排水口に流したら発芽して、排水口からカイワレ大根みたいに生えてきて困ったのを、田中先生が綺麗にしてくださいましたわよね。今年もスイカではないのですが、何かの種がすくすくと育ってしまっていまして……」
またかよ?と祐樹はエレベーターの天井を仰いだ。スイカの種などは水があれば発芽するのは当たり前で容器ごとゴミとして捨てれば何の問題もないというのに……。尤も長岡先生の婚約者の岩松氏は彼女の家事能力には微塵も期待していない。彼が望むのは日本一の私立病院の副院長として相応しい力量と、政財界の大物が集まるパーティなどでそつなく振る舞い、人脈を広げることだと聞いている。
「家事などは使用人に任せればいい。それより君にしかできないことをして欲しい」と言っているのを祐樹も岩松氏に招待されたレストランの個室で聞いていた。
「そうなのですか?また休日にお邪魔して種ごと取ってしまいましょう」
最愛の人は真面目な表情で応じている。いっそのこと、ハウスキーパーを雇えと言いたくなったが、肉親の情というものを疑似体験している最愛人の気持ちを考えると、現状維持が望ましいのだろう。

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