「気分は下剋上　知らぬふりの距離」２９

「牡蠣が当たったくらいで呼び出さないでくださいよ。多重事故か何かだと思いました。しかも腸炎ビブリオですよね」
　処置がひと段落した後に医師用の休憩室に入って柏木先生に文句を言いたくなった。同じ食中毒でもフグほどの致死性はない。
「いやあ、ノロかと思ったんだ。田中先生にLINEを打った時には……。ノロだったらみんな仲良く一緒に罹ろうと思った」
　何が悲しくて、トイレとベッドの往復をしつつ、最愛の人に感染させないように努力しなければならないのか。思わず宙を仰いだ。
「嫌です。香川外科でノロが流行する事態は何としても避けたいです。それでなくとも手術の日程が立て込んでいるというのに、香川教授までノロで倒れたらと思うとゾッとします。さて、LINEが来ているようです」
　柏木先生が「それもそうだ」と言わんばかりに頷いた。
「もしかして商社レディか。いい加減結婚してしまったらいいんだが。あ！もしかして既婚だったら看護師や事務局の女性からのバレンタインチョコが激減するのが嫌だとか？」
　柏木先生の突拍子もない推論に、頭が痛くなりそうだった。祐樹は海外勤務が多い商社レディと付き合っているという設定にしてある。
『夏輝です。今夜はありがとうございました。やーーーっと母と連絡が付きました。ただ、父が申していたように明日はどうしても外せない用事があるので京都に帰るのは明後日になります。命が危ないなら明日の予定をキャンセルするとか言っていましたが、有名な京大附属病院の香川教授が診てくれているなら大丈夫でしょ。大船に乗ったつもりでいるからと。明日は香川教授が教えてくださった不定愁訴外来に十二時頃行ってみようと思っています。香川教授か田中先生にお会いできればいいのですが、ご迷惑でしょうか？』
　夏輝にしては長文のLINEだった。しかも敬語もしっかり使えているなと感心した。ゲイバー「グレイス」で会ったときには敬語など全く気にしていないという印象で、彼もずいぶんと変わったものだと何だか感慨深い。
「急なことで随分と驚かれたと思います。今は家でしょうか？もしそうならゆっくり休んでください。今夏輝さんまで倒れたら大変ですよ。明日、いやもうすでに今日ですが、私の仕事は流動的ですので十二時に不定愁訴外来に行けるかどうかはまだ分からないですが、なるべく寄るように心掛けます。迷惑だなんて思っていないです。最愛の人もきっと。お母さまと連絡がついて本当に良かったです」
　送信すると、即座に既読がついた。
「お、延々ＬＩＮＥか。商社レディに宜しく伝えてくれ」
　柏木先生が祐樹のスルーにもめげずに話しかけてくる。
「バレンタインデーのチョコが惜しくて結婚を先延ばしにするなんて、そんな物好きはいないでしょうね。長すぎる春ですが、それでお別れになっても仕方ないと思っていますよ」
　もちろん商社レディなどはいない。チョコ程度なら構わないが、告白してくる女性の心を折るために、わざわざ虚偽のウワサを流布している。
『今家です。あれから病院内のローソンに行って『入院の手引き』という冊子の通りのものを買って父に届けました。そして広瀬という看護師に『早く帰宅して休んだほうがいいですよ』と言われたので、タクシーで家に帰りました。ちなみに広瀬看護師は顔もいいしナイスバディですよね。ゲーム好きの友達に見せたらきっと泣いて喜ぶと思います』
　ゲイの夏輝ですら広瀬看護師の顔や身体に目を惹かれたというのに、有瀬誠一郎氏は何故視線を全く動かさなかったのだろうか？夕方までピンピンしていて、その後救急搬送、そして入院という青天の霹靂に気を取られて周りのことなどどうでもいいと思ったのかもしれない。ゲーム好きの友達というのは、行き過ぎたＤＥＩ（多様性・公平性・包括性）意識の反動でゲイに嫌悪感を抱いていた人だろう。確かにゲーマーも黙るほど広瀬看護師のナイスバディは圧巻だ。といっても、街で見るゲームの広告などはもっと胸は大きいし、ウエストは限りなく細い。そういったゲームのキャラと比べれば、広瀬看護師のスタイルはやや見劣りするのも事実だが、実在する人の中では十分に恵まれている。とはいえ、祐樹にとっては特に印象に残ることもなかった。病院内からのお誘いは多いだろうが、不倫をゴキブリ以上に嫌う三好看護師が目を光らせているため、不倫沙汰には絶対に巻き込まれる心配はないだろう。
「家に着いたとのことで本当に良かったです。広瀬看護師は眺めるだけにしてくださいね。間違っても、そのゲーム好きのご友人が告白するようなことは避けてください（笑）ウチの病院の中央エントランスはタクシーがつかまりやすいことで有名なのです。これから何を使って病院に来るのか知りませんが、睡眠不足だと判断力も鈍ります。タクシーが最も安全ではないでしょうか？」
　夏輝は空気を読むのが上手いし、つい何とかしてあげたいという気になってくる。最愛の人が気に掛けるのもよく分かる。
『承りました。これから手術のことなど話し合わないとダメなことってたくさんありますよね？しかし、父も香川教授が執刀して下さるなら安心だと申しておりました。だから手術自体には反対しないと思います。また、常務にもことの次第を説明したら物凄く安心したと連絡がありました。これからも宜しくお願いします。田中先生もお忙しいと思いますので、ＬＩＮＥは控えたほうがいいでしょうか？』

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