「気分は下剋上 知らぬふりの距離」24

「気分は下剋上 知らぬふりの距離]
This entry is part 32 of 35 in the series 知らぬふりの距離

「黒木准教授、手術のリスケはこれで行きましょう。遠藤先生、手術室にメールと、そして念のため明日の朝にも連絡してください」
 最愛の人の白く長い指が持っている用紙を見て眉を寄せてしまった。
「教授、よろしければ、そのうちの一件の執刀医を私に任せてくださいませんか?」
 一日二件のペースが最愛の人のルーティンだが、執刀経験のない遠藤先生は机上の空論のように三件の手術を入れていた。
「ゆ……田中先生が手助けしてくれるのは本当にありがたい。そうだな……」
 最愛の人がやっと笑ってくれた。もちろん、この場に相応しい小さな花のような笑みだったけれども、祐樹には充分すぎるほどの心の栄養だ。
「では、この安西さんの手術を、ゆ……田中先生に回していいか?」
 安西さんのデータを見、最愛の人が遠藤先生に提示された三件のうちで難易度が真ん中の手術を振られたことに喜びを感じた。国際公開手術前であれば、最愛の人しかこなせないようなレベルの手術を任されたことになるのだから。
「分かりました。香川外科の金看板に傷をつけないように頑張ります」
 最愛の人は唇に小さな花のような笑みを浮かべながら描いたような眉を少し寄せている。
「田中先生、ウチの科がどうこうではなく、患者さんの生活の質が格段に向上できるように頑張ってくれればいい。看板のために手術をするのではなく、安西さんのために、ゆう……田中先生の手技をいかんなく発揮して欲しい」
 最愛の人の指摘はごもっともだ。最愛の人も大学病院の看板教授と呼ばれているが、彼自身は毎日黙々と手術を成功させてきただけで、外部がそう評しているだけだ。
「はい、分かりました。今後は気をつけます」
 最愛の人が「ゆ……」や「ゆう……」と口をついて出、そして慌てて言い直しているのを長岡先生は可笑しそうな笑みを浮かべている。彼女以外にはその不自然さに気付いていないのが幸いだった。
「長岡先生、少しよろしいでしょうか?」
 長岡先生のことだから、シルクのパジャマめいたものもどこかのブランドものなのだろうが、病院で着ていいものではない。夏輝もお父さまの急を聞いて駆け付けたが、白いTシャツにジャージというある意味まともな格好をしていた。患者さんの容態急変と聞いて慌てたのは分かるが、せめて寝巻を着替えてから駆け付けて欲しかった。
「はい?何ですの?」
 医局の隅に手招きすると、テトテトという足音がした。もしかして、スリッパか、つっかけのようなものを履いているのではと恐る恐る下を見た。救急救命室の家族控室では、そういうものを履いていても「気が動転して駆けつけてきたのだろう」とスルーされるが、医療従事者がそんな恰好ではまずい。
 ……彼女は普段通りにヒールがそう高くないパンプスを履いていた。なぜそんな足音になるのかさっぱり分からないが、そこまで考察するほど祐樹は暇でない。
「その服はパジャマですよね?こんな時間に呼び出されたのではある意味仕方ないですが、患者さんの前ではまずいと思いますよ。幸い誰にも気づかれていないから良かったものの……」
 最愛の人はビデオカメラ並みの記憶力と卓越した知識は持っているけれども、女性用の衣服までは把握していないに違いない。もし、長岡先生の着ている服がパジャマだと認識したら彼がそれとなく注意するはずだ。
「あ……え……っ!?」
 長岡先生は白衣のボタンを外し、初めて自分が着ているものに気付き焦っているようだった。
「病院に来るとき、タクシーの運転手さんに何も言われませんでしたか?」
 まあ、普通は「京大附属病院まで」と運転手さんに焦って告げるのは、患者さんのご家族なので、何も言われなかった可能性が高い。
「それが、私が持っていたバッグをご覧になって『それ!バーキンですよね!初めて実物を見てテンションが上がります』と言われただけです。白衣を脱いだらパジャマだと露見しますでしょうか?」
 長岡先生は恥ずかしさのせいか顔から滝のように汗を流している。この人はシルクのパジャマにバーキンを持って病院に駆けつけたのかと思うと頭痛がしそうになった。タクシーの運転手さんもパジャマに言及してほしかったと、ないものねだりをしてしまった。
「教授、少しお時間宜しいですか?」
 最愛の人は長岡先生の声で振り返り、彼女の真っ赤な顔を不思議そうに見ながら軽やかに白衣を翻しながら歩み寄ってきた。
「何かありましたか?」
 やはり最愛の人も長岡先生の着ているパジャマを凝ったシルクのブラウスとしか認識していないらしい。
「実は、私も気が動転していて……、室内着として着ていたパジャマのままでこちらに駆けつけたのです。白衣を脱いだらさすがに看護師には気づかれてしまいますわよね……。どうしたら良いのでしょうか?」
 長岡先生は最愛の人を兄のように慕っている。また最愛の人も彼女のことを困った妹のように思っているのも知っている。
「教授執務室には、念のための着替えが置いてありますよね?ワイシャツはサイズが合わないかもしれませんが、ジャケットならばなんとかなるのではないでしょうか?」
 女性用の服のサイズなどは知らないが上着ならばパジャマを隠してくれるはずだ。

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