- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」1
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- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」教授視点 1
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最愛の人の目をじっと見つめていた黒木准教授も、おそらく彼の意向を察したのだろう。満足そうに大きく頷いている。
「私も日本酒がいただけるお店でしたら……喜んでお供します」
黒木准教授まで参加を表明したものだから医局はいっそう盛り上がった。
「香川……教授ももちろん参加なさいますよね?」
柏木先生は、まるで投票日の夜、八時ちょうどに「当選確実」と報じられた候補者のような笑みを浮かべていた。実際の票がいくつ入っているかは分からない。しかし、テレビがそう言うのだから――きっと当選しているに違いない。ただ、テレビが誤報だったらという一抹の不安を抱えつつも、それでも信じて前に進もうとするような顔だった。
「……もちろん」
一瞬だけ、最愛の人の視線が祐樹へと向けられた。それはまるで――「参加していいのか?」と問いかけるような、ためらいの眼差しだった。祐樹は黙って、瞳に力を込めた。どうぞ、と。もちろんです、と。その思いを言葉にせずに伝えた。ほんの刹那――最愛の人の眼差しが、薄紅色の笑みを一筋、静かに宿した。
「参加します」
その一言が医局の空気を弾かせた。「やった!」「嬉しいです!」「香川教授も参加なさる、呑み会って、初めてだろ?」「ああ!道後温泉の医局慰安旅行くらいだよな」弾けるような声が、あちこちからあがる。
「あのう……『吉兆』とか……そういう名だたる料亭じゃないですよね?」
遠藤先生が、恐る恐るといった感じで最愛の人や黒木准教授を見ている。最愛の人までも参加するのだから、それなりの格式をと考えたのだろう。最愛の人は、宥めるような眼差しで遠藤先生を見ていた。
「バカ!そんな高いとこ行けるか。……いや、理想は綺麗どころ呼んでどんちゃん騒ぎだけど」
柏木先生はからりと笑った。
「香川……教授御用達の……」
思わせぶりに言葉を切った。元同級生なので「香川」と「教授」の間で迷って言い直すあたりが、柏木先生らしい。「香川教授御用達」と聞いて遠藤先生は怯えたような――いや縋るような目で最愛の人を見つめていた。彼の中で、香川教授はきっと格式の高い店で黙々と食事をとっていそうな存在なのだろう。
怜悧で端整な外見、その眼差しの冷静さが、そう思わせるのも無理はない。しかし、最愛の人は、実際アポロチョコやプラスチックの瓶に入ったラムネのような駄菓子も大好きだし、屋台の綿飴やりんご飴もとても幸福そうに食べている。それらは決して「味の好み」というだけの話ではない。高校を卒業するまで、遠足や修学旅行にも行かなかった。病気がちだったお母様を一人にしておくのが怖かったから――それが理由だった。そういう場所に行けなかったからこそ、手にする機会がなかったのだ。祐樹と付き合うようになって、その頃に「食べてみたかったもの」を一つずつ試して楽しんでいる。それでも――この外見では誰もそんなことを思いもしないのだ。その白衣に包まれた姿が、あまりに整っているから。
柏木先生は、にんまりとした笑みを浮かべている。
「香川……教授と、そしてなんとオレの御用達の定食屋兼居酒屋の『あみや』だ!」
医局の空気が一気に懐かしさに包まれたように変わった。「おお!学生時代によく通った!」「そういえば、ずいぶん行ってないけど、焼きおにぎりが絶品なんだよな、あそこ。オレは学生のころ、十個も食べた!」……いや、十個って……?
「いやあ、懐かしいです。私も学生時代、もう三十年前になりますか……あそこにはよく通ったものです。少し味付けの濃い肉じゃがが、日本酒とよく合うんです」
黒木准教授が笑いながら祐樹に言った時、医局のドアがスライドした。「このタイミングで来てくれてよかった!!そうでなきゃ、もっととんでもないことになっただろう」という遠藤先生の心の声が聞こえたような気がした。
「あら、皆さま楽しそうですわ」
長岡先生が薄いピンクの唇に、そっと色を乗せたような化粧とシャネルと思しきスーツに白衣を着た姿で現れた。
「日程は未定ですが、医局全体で――もちろん、宿直がある先生は途中退席など臨機応変に対応します。太っ腹な遠藤先生の奢りなので……お口には合わないと思いますが……、定食屋兼居酒屋を借り切っての医局の呑み会を企画しようとしています」
柏木先生がどこか申し訳なさそうに微笑んでいる。それもしごく尤もな反応だった。細い首元には、三カラットはありそうな一粒ダイヤのネックレス。白衣の下には、シルエットの美しいシャネルのスーツ。そして通勤用のバーキンは、スーツの色に合わせて日替わりで持ち替えている――とのナースの証言もある。しかし、祐樹と最愛の人は知っていた。この長岡先生が、三カラットのダイヤを下げたまま、「玄関開けたら二分でごはん♪」のCMでお馴染みのレトルトご飯をチンして、卵を割って、はい、夕食――と「料理」していたり、カップ麺の封を開けながら、「ラーメンにも薬味くらい付けてくれればいいのに」とつぶやく声を聞いたりしたこともあった。その時は、カップ麺ではなくて、最愛の人がありあわせの材料を使って――特に卵のパックの賞味期限をチェックしていたのは言うまでもないが、夕食を作ったこともあった。

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