- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」1
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- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」15
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」教授視点 1
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- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」教授視点 3
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- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」18
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「――お父さまだって、発見が遅れたら……」
これ以上は言っては、夏輝がタバコ断ちで願掛けをしている健気さを踏みにじるような気がした。最愛の人の大輪の花のような笑顔にはかなわないものの、夏輝の若者らしい笑顔をつい守りたくなった。祐樹は最愛の人とのデート中でも平気で手術の話をすることがあった。ただし、それは「医師の常識は世間の非常識」であることを充分に理解しているからだ。たとえば、熱傷患者の処置を終えたあとの、救急救命室の凪の時間に久米先生は焼肉弁当を平気で食べている。慣れというのはある意味恐ろしいなと思っていると、夏輝は察したように頷いている。
「父さん、いえ、父は、たまたま会社にいて、専務と打ち合わせをしていたらしいです。その時に胸を押さえて倒れ込んで……慌てて救急車を呼んでくれたらしいです。その専務は僕もよく知っている人で、田中先生からの電話のあとで連絡がきました。本当は僕じゃなくて先に母さんに連絡しようとしたみたいですけど……」
夏輝はスマホをポケットから出して口をへの字にしている。きっと、お母さまのLINEの既読がつかないからだろう。
「僕も専務に現状は報告して、専務は母にLINEと電話をしています。まだ連絡はつかないみたいですけど……」
眉を寄せた顔はまだまだ少年っぽい感じを色濃く残している。それはそうと、有瀬誠一郎さんは運がよかったなと思った。社長室があるかどうかまで知らないが、会社の個室で倒れ、そのまま誰にも気づいてもらえなかったら、最悪の事態はじゅうぶんあり得た。
「お父さまは運がよかったですね。今は公共の施設などにAEDが設置されていますよね。夏輝さんは、触ったことがありますか?」
夏輝は、祐樹の言葉の意図が分からなかったらしく、ぽかんとした表情だった。
「学校で一度だけ使い方を習いました。といっても……先生が人形?マネキン?そんなものを使って実際に行っていたのを見ていただけですけど。機械の音声で教えてくれる通りにすればいいんですよね?でも、それが何か?」
手順は一応知っているらしい。それならば、話は早い。
「たまたま、駅……そうですね、阪急の四条河原町駅は、夏輝さんの行動範囲ですか?」
そこはゲイバー「グレイス」の最寄り駅でもあるが、夏輝が阪急電車を利用しているかどうかまでは分からない。
「はい。僕も時々乗りますけど?」
祐樹の考えたシナリオ通りにことは運んでいるようで何よりだった。
「そこでたまたま、前を歩いていた中年男性が倒れ、夏輝さんがとっさの判断でAEDを使っていたときに、最愛の人と私が通りかかったという状況はどうでしょう?」
夏輝は納得したように、小さな花が咲くような笑みを浮かべていた。
「ああ、やっと分かりました。僕がAEDを使っているときに、お二人が通りかかって、もっと専門的な治療をし、その架空の中年男性の命は助かったという『設定』にするんですね。それなら、僕が香川教授の名刺を持っていても、不自然じゃないですよね?そういうことですよね……」
夏輝の空気を読む力にも感心したが、察しのよさも素晴らしい。腕を磨いたら、本当にハリウッド女優の専属美容師になれるかもしれない。
「そうです。駅員さんを呼ぶ程度のことは、善意の通行人もするでしょうが、そこから一歩踏み出して、救急救命までする人というのはまだまだ少ないのです。夏輝さんが、勇気を出して四条河原町駅のAEDを使わなかったら、その架空の男性の命はなかったかもと感心した彼が、名刺を渡したという流れも自然でしょう?」
夏輝は納得した笑みを浮かべている。
「そうですね。まさか、ゲイバー『グレイス』で会ったなんて言えませんもんね。あ、父はもしかしたら、教授の名刺を見たかもしれないんです。夜中にスマホだけ持ってコンビニに買い物に行ったことがあったんです」
夏輝は「グレイス」でも、先ほどの自販機でもスマホ決済をしようとしていた。近所のコンビニに行く場合は財布を持っていかない習慣があるのかもしれない。
「そうなのですか?具体的には?」
別に名刺を見られたくらいではどうということはないだろうが、会話をした場合は事情が異なる。
「財布はキッチンのテーブルに置きっぱなしだったんです。僕が、コンビニから帰ったら、父が帰宅していて、僕の財布が几帳面な感じに直されてて、お札が三万円増えてました。父は時々そんな感じで小遣いをくれるんです。『母さんには内緒だぞ』と。その次の朝、ミルクだけ飲んで学校に行こうとしたら、『お前、すごい人と知り合いなんだな……』ってものすごく嬉しそうに笑っていました。僕だって、なんて返したらいいか分かんなくて、『まあね』とだけ言って家を出ました。財布に大切に入れてあった教授の名刺を見たんだと思います。あのう、なにか問題はありますか?」
少し不安げに祐樹を見上げる夏輝は、小動物のように愛らしかった。
「その程度であれば、まったく問題はないと思います。肝心なのは、夏輝さんと最愛の人が『どこで』会ったのかを、お父さまが把握なさっていないことですから」
ふうっとため息をついた夏輝の笑みは、剝きたてのゆで卵の白身のように滑らかで、やわらかかった。
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