「気分は下剋上 知らぬふりの距離」 16

「気分は下剋上 知らぬふりの距離]
This entry is part 18 of 23 in the series 知らぬふりの距離

 遠藤先生は、手術の腕前について残念ながら凡庸といわざるを得ない。といっても専門性に特化した大学病院のレベルとしてという前提だが。最愛の人の手技や人格を深く尊敬していることは確かなので、医局を離れることはないだろうが、万が一実家を継ぐなどで大学病院を去ったとしたら、骨折などの整復は先ほどの吉田医師よりはましなはずだ。遠藤先生の手技は見たことはないが、祐樹の外科医としての勘のようなものがそう告げている。
 それよりも、彼は、論文やレポートを日本語および英語で書く才能は素晴らしい。最愛の人の手術を文字媒体で世界に発信することで、香川外科での存在感を発揮している。最愛の人はアメリカ帰りなのに、情を重んじる日本人の気質を持っていて、たった一つの例外が、手術の際のスタッフ選びの実力主義な点だ。祐樹が第一助手を務めていたとき、めきめきと腕を上げてきた久米先生にいつ第一助手の座を奪われるかと戦々恐々としていたのも事実だった。
 今は国際公開手術の成功によって、久米先生を実力で引き離せたため、少しだけ安心していた。それはともかくとして、最愛の人が「外科医として充分な実力を持った医師のみを救急救命室に派遣している」という医局内では周知の事実に眩しさを覚えているのだろう。だからこそ、祐樹や柏木先生、そして久米先生の雑談を、身を入れて聞き、救急救命室の凪の時間というのも知っていたのかと一応結論つけた。「凪の時間にコンビニに行くんです。田中先生は、おでんの大根とこんにゃくに柚子胡椒をたっぷりかけて食べるのがお好きで、なんと十パックも持って帰るように命じられるんですよ」みたいなことを久米先生が嬉しそうな顔で医局でも披露している。凪という言葉と、コンビニに買い物に行けるというピースが揃えば類推は簡単だ。
「宜しくお願いします」
 固定電話の受話器を置いた祐樹に柏木先生が心配そうな表情で近づいてきた。救急救命室のモットーは「休めるときにはとことん休む」なので、処置室には誰もいない。先ほど有瀬さんを診ていた清水研修医は看護師休憩室に入っていった。きっと斎藤看護師の容態が気になったのだろう。ちなみに、研修医は看護師休憩室にするりと入り込めるが、医師は断固として拒否される。「男性禁止の女の園よ」と、杉田師長が高らかに宣言していた。大学病院で研修医は人として扱われないという悪しき風習を逆手にとった感じだ。救急救命室も香川外科同様、いやもっとシビアかもしれない「出島」なので先ほどの吉田医師のように杉田師長のお眼鏡にかなわないような医師は呼び捨てにされる。他の科でもベテランナースに呼び捨てで怒鳴られることも多いと聞いている。祐樹は、キャリアが異なる以上、そう呼ばれるのも仕方ないと割り切っていたが、プライドだけは高い医師は、市民病院に就職したり、実家の医院で「副院長」として働いたりする。そちらでは「先生」「副院長」と呼ばれることでなけなしのプライドを守っているらしい。祐樹にはまるで分からない精神状態だが、本人には重大なことなのだろう。
「田中先生、香川外科、大変なんだって?」
 心肺停止の蘇生術を行っていた柏木先生も、香川外科の現状を知ったに違いない。有瀬さんのように、受け入れが遅れるという事態は祐樹の知る限りなかった。その点から異常を知ったのかもしれない。そして、彼は医局長なので祐樹よりも案ずる気持ちと責任感は重いのだろう。
「香川教授も駆けつけられたようです。ですから、我々が様子見に行くよりも、こちらで職務を全うすることを教授もお望みでしょう。私は少し外の空気を吸ってきてもいいですか?もちろん、サイレンの音が聞こえたらすぐに戻ります。また、こちらの患者さん、有瀬誠一郎さんというお名前ですが、香川外科に受け入れ可能になったら私のスマホに知らせてもらうように遠藤先生に頼みました。その時には医局の様子を見にいきがてら有瀬さんに付き添います」
 普段は処置を終えた患者さんは各医局からの看護師に託すが、最愛の人まで駆けつける医局のことが気になった。
「そうか。そうしてくれると助かる。香川……教授まで呼ばれるほどのことって今までになかったからな。せっかく蘇生術が我ながら最高の出来だったのに、医局のことが気になって晴れやかな気分にならない」
 柏木先生は眉を曇らせている。
「いいえ、先ほどの家族控室から出ていく柏木先生の背中は、まるで凱旋した将軍のようでしたよ」
 これで少しは心が晴れてくれればいいと思った祐樹に柏木先生は照れたような笑みを浮かべていた。
「斎藤、また先生たちの足手まといになるわね。それは自分が最もよく分かってるでしょ?解熱剤を用意したから帰って休みなさい。そして、明日には戦線に復帰するのよ。もちろん、熱が下がったらの話だけど。溜まりまくった有給を使って休んでもいいからね」
 看護師休憩室から聞こえてきた杉田師長の言葉は突き放すような中にも親身な響きが混じっている。杉田師長と一緒に出てきた斎藤看護師は祐樹を見て深く頭を下げた。頭を下げられるようなことはした覚えはないが、一点だけ思い当たることがあった。

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