「気分は下剋上 知らぬふりの距離」15

「気分は下剋上 知らぬふりの距離]
This entry is part 15 of 23 in the series 知らぬふりの距離

「そりゃそうですよね。こんなお堅い職場で、そこまでカミングアウトしたら大変なことになってしまうと僕も思います。それで、香川教授や田中先生と僕はどうやって知り合ったかと突っ込まれたら、どう返せばいいですか?」
 夏輝も声量を落とした声で聞いてきた。
「少し待っていてくださいませんか?処置室に新たな患者さんが搬送されていなければ、時間を取ることができます。私が一人になりたい時に行く隠れ場所にご案内します。尤も、サイレンの音が聞こえたら即座に戻らなければなりませんが」
 夏輝は年相応の爽やかな笑顔を返してくれた。確か夏輝は二十一歳だったと聞いている。ゲイバー「グレイス」で初めて見た時には無理に大人ぶった笑みを浮かべていたが、こちらの飾らない笑顔のほうが夏輝の本質を表しているようだ。
「田中先生が貴重な時間を割いてくださって本当に嬉しいです。患者さんを優先するのは当たり前なので、どうか気にしないでください」
 柏木先生は患者さんのご家族に容態説明を終えたのか処置室に戻っていった。蘇生術が会心の出来だったのか、患者さんのご家族の感謝の念に応えていた先生の背中には後光が射しているような雰囲気だった。心肺停止で運ばれた患者さんの多くはそのまま命を落とす確率が高いので、柏木先生がそういうオーラをまとうのはある意味当然だろう。祐樹も救急救命室一の蘇生術数を誇っているが、そんなときにはきっと同じような感じなのだろうなと思ってしまった。
 救急救命室は、自宅で倒れた患者さんを家族が発見し救急車に同乗するパターンも一定数ある。そういう患者さんのご家族は、救急車のサイレンの音がトラウマになってしまっている人も数多いので、家族控室にサイレンの音が聞こえないように工夫されている。患者さんの家族はそれでいいだろう。しかし、サイレンの音が聞こえる場所にいることが、祐樹にとっては必須だ。
 夏輝に会釈して処置室に戻ると有瀬誠一郎氏だけが残っていて、他の患者さんの姿はなく、清水研修医がバイタルの確認をしていた。
「田中先生、他の患者さんは全て各科に受け入れてもらいました。しかし、香川外科はまだ容態が急変した患者さんの処置で人員が不足していて、受け入れには時間を要すると黒木准教授から連絡がありました。なんでも、香川教授まで病院にいらしているとのことです。この患者さんは私が責任を持って診ていますから、医局に連絡を入れたほうがいいと思うのですが……」
 祐樹は眉を寄せてしまった。清水先生は、京都一の私立病院の御曹司だけあって、大局を見る目が確かだ。ゆくゆくは、外科医のお兄さんと跡取りの座を狙うために実家の病院に帰ると聞いているが、救急救命室でも、そして本来の所属である精神科でも重んじられていると聞いている。ぜひとも大学病院に残ってほしいと思うのは、祐樹のわがままだろう。しかし、清水研修医は大学病院にとっても貴重な人材で、最愛の人が購読しているビジネス雑誌をぱらぱらとめくっていたときに見た「優秀な人材の流出を防ぐために経営者が気を付けなければならないこと」という記事の「優秀な人材」というのに全て当てはまっている。
 それはともかくとして最愛の人が准教授の判断で呼び出されるのは珍しい。さらに眉をしかめて香川外科の内線番号の短縮ダイヤルを押した。有瀬さんは清水研修医の厚意に甘えよう。先ほど家族控室で神様のように拝まれていた吉田先生よりも、よほど頼りになる医師だ。
『はい、心臓外科です』
 その声は今夜の当直医の遠藤先生だった。
「お疲れ様です。田中ですが、容態急変の患者さんがいると聞きまして。私の担当ですか?」
 もしそうなら、杉田師長に平身低頭し、何なら土下座をしてでも香川外科に戻るのが筋だろう
『いいえ、違います。それに、香川教授と長岡先生までいらしているので、こちらは大丈夫です。救急救命からの受け入れが遅くなって申し訳ないと教授もおっしゃっていました』
 遠藤先生は祐樹の恋人を心の底から尊敬している。香川教授と発音するたびに誇らしさが伝わってきた。
「了解です。受け入れ可能になったら、お手数ですが私のスマホに連絡してくださいませんか?」
 黒木准教授は経験に裏打ちされた実力で医局運営をつつがなく行ってきた人だ。だから、最愛の人がすべきことをものすごい速さで処理できることと相まって定時上がりを可能にしてきた。そしてその後は教授職の彼を呼び出すことはそれほどないと最愛の人が言っていた。その例外が今まさに起きているわけで、どうにも気になってしまう。
『ああ、凪の時間というわけですね。分かりました。そのようにします』
 遠藤先生は羨ましそうな声だった。それにしても、凪の時間という、救急救命室の隠語めいた言葉を遠藤先生がなぜ知っているのだろうかと小さな疑問が生まれた。

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