- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」1
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- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」教授視点 1
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- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」18
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夏輝はスマホを見て「まだ既読がついてない!母さん、吞んだくれている場合かよ」と苛立った感じで独り言めいた感じで祐樹にも状況を伝えてくれていた。
吉田医師は先ほど祐樹に詰め寄った、ユズルという人のお母さまに説明をして、彼女は腰が抜けたように床に座り込み、吉田先生を神様か仏様でも見るような目をして手を合わせている。他にもそれぞれ輪になった家族に医師が出てきて容態説明を受けている。ただし、最も重症だった患者さんを担当していた柏木先生の姿だけはない。心肺停止で運ばれたのだから処置に時間がかかるのも無理はない。そのご家族と思しき人だけが、不安そうに医師や看護師が使う扉をじっと見つめていた。
「喫煙と会社経営のストレスでしょうね。ただ、先ほども言った通り、心臓外科でバイパス術を受ければ、『生活の質』も格段に上がります」
夏輝を慰めるように祐樹が言うと、彼は顔を輝かせている。
「それって、執刀医は香川教授なのですか?父もよく『香川教授になら手術をお願いしたい』と言っていました」
最愛の人はビジネスパーソンが読む雑誌の「日本の名医十選」などに常に上位にいる。そして病院長命令で写真付きインタビューにも応じていた。それで有瀬誠一郎さんも名前と顔を知ったに違いない。
「多分そうなると思います。私も執刀医の端くれになりましたが、あくまで心臓外科の主役は香川教授です。主治医、つまり普段の容態を聞いたりバイタルに問題がないかを確認したりする役目は私が務めることになると思います」
救急救命室経由で移送された患者さんの場合、主治医は柏木先生か祐樹になるのが医局の慣習だった。柏木先生はバイクに乗っていたと思しき心肺停止状態から蘇生させた患者さんの処置に当たっている。当然、有瀬誠一郎さんにはノータッチなので祐樹が主治医になる流れだろう。
「そうなんですね。とても安心しました。田中先生のような、誠実でマメな人が父についてくださるんですから」
夏輝は安堵めいたため息を零していた。
「誠実でマメですか?」
最愛の人に対しては誠実でありたいと常に思っているが、他の人に対して、そう評価されるようなことをした覚えはない。主治医を務める患者さんにだって、入院中は責任を持って診てはいるが、退院と同時に記憶のゴミ箱にそっと移している。
「だって、僕の英語の勉強の進み具合、『既読だけで充分だ』と言ったのに、『それは目上の人やビジネスでは通用しますが、やや堅苦しいので距離が近い人にはこう言ったほうがいいでしょう』と返信して下さってますよね?僕にとっては本当にありがたいんですが、田中先生の貴重な時間を――」
夏輝は言葉を切って周りを見回している。先ほどとは異なって、柏木先生が処置をしていると思しき家族が祈るように入り口を見つめているだけで、他の家族は移送先の病棟に案内されたのか周りは静かだった。
「――恋人の香川教授にも当然使っているとは思いますけど、僕のような『グレイス』で一回会ったきりの人間にまで割いてくださってますよね。充分誠実でマメだと思います」
深く頭を下げた夏輝に苦笑を返した。
「私は心臓外科から救急救命室に助っ人で来ています。夏輝さんもここで体験なさったように、複数人の患者さんが搬送され処置室は阿鼻叫喚といった感じになることもあるのですが、今のように比較的暇という時間もあります。その時間にパパっと返しているだけですよ。お礼を言われるようなことはしていません」
夏輝はゲイバー「グレイス」で会った時よりも、さらに真面目な感じだった。初対面こそあの店によくいる、己の容姿を過大評価して自己顕示欲が強い人かと思っていたが、最愛の人と杉田弁護士、そして祐樹と会話していくうちにゆで卵の硬い殻が外れて、中からつやつやと光る白い部分が現れたようになっていた。そして今はその白い煌めきがよりいっそう増している感じだった。
「心臓外科では当然、香川教授ともお会いすることになると思います。夏輝さんと知り合いだということも彼は多分隠さないでしょう。しかし、具体的にはどんな知り合いなのかと詮索されることも十分にあり得ます」
夏輝は真面目そうな表情を浮かべて祐樹の話に集中しているようだった。
「香川教授って、嘘を吐いたほうが丸く収まるシチュでも、敢えて本当のことを言う人ですよね」
羨望めいた眼差しを浮かべた夏輝が言った言葉はまさに正鵠を射ていて、夏輝の観察眼の鋭さに驚いた。一回会っただけなのに、最愛の人の性格まで見抜くとは……。シチュはシチュエーションの略だろう。
柏木先生が家族控室に晴れ晴れとした表情で入ってきた。どうやら蘇生術は成功したらしい。家族の輪の前に立って説明をしている。家族もまるで生き仏に会ったように柏木先生の言葉に集中している。
「――性的嗜好のこと、そして私との真の関係は別ですが、それ以外は夏輝さんの言うとおりです。ですから、ゲイバー『グレイス』で会ったということは二人だけの秘密ということでお願いしたいのです」
祐樹も声をひそめて夏輝に告げた。
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