- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」1
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- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」教授視点 1
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「すみません。ユズルさんのお母さまは下手をすると、ここにまで押しかけそうな勢いでしたので……。有瀬さんのご子息にはきちんと許可を得て離れました。しかし、配慮不足だった点はお詫びします」
頭を下げた祐樹に杉田師長は何も塗っていない唇をわずかに吊り上げ、笑みに似た表情を見せた。
「分かればいいのよ。吉田!今の田中先生の話、聞いたでしょ?とっとと終わらせて、そうね、五分以内ってところね。早く控室に行って容態説明!!」
ユズルの整復は祐樹なら四分で充分だが、吉田先生は多分十分程度必要のような気がした。看護師休憩室から出てきた清水研修医は、杉田師長と吉田先生、そしてユズルの骨折部位を見ている。熱発で倒れた斎藤看護師の様子を見にいっていたに違いない。
「よろしければ整復変わります。師長許可をいただけませんか?お母さまが取り乱していらっしゃるのですよね。師長には『孔子に論語……釈迦に説法』と思いますが。吉田先生を即座に容態説明をお願いすることにして」
杉田師長は、まごうことなき実力と経験を持ったベテランナースだが、専門学校卒と聞いている。清水研修医が「孔子に論語」と言ったとき、不審そうな表情を浮かべていた。だから、咄嗟に言い換えた清水研修医の臨機応変さに感心した。
臨機応変さといえば、有瀬誠一郎さんは香川外科に移送が決まっている。当然、美容師専門学校生の夏輝も見舞いに来るだろう。ゲイバー「グレイス」で聞いた夏輝の家族構成は、母が副社長をしていて全国に二十店舗だったか詳しいことは忘れたがとにかく全国展開をしている美容室チェーン店の創業者、有瀬誠一郎とその片腕だ。そして夏輝はその一人息子だと聞いている。CEOが心筋梗塞で入院した場合、経営は夏輝の母の香織さんの肩にのしかかると予想される。お見舞い役は夏輝が引き受けることになりそうだ。香川外科に入院し、祐樹の診立てでは多分バイバス術を受けるだろう。そうなれば最愛の人と夏輝だって顔を合わせる機会は多い。最愛の人はとっさに嘘が吐けない人なので、夏輝と知り合った経緯について事前に祐樹が考え、それを彼に教えるしかなさそうだ。「バーで知り合いました」程度は言えるだろうが、周りにいる医局員に、「教授行きつけのバー、是非ともご一緒に」などと医局で言われたら最悪だ。
医局員は最愛の人を心臓外科の神様のように崇められ、遠巻きにされていたが、最近では彼の周りに医局員が集まるようになっている。絶対的な存在から、皆にとっての拠り所へと変わった。
最愛の人に指摘され、存在を忘れていたモルガンスタンレー銀行だかの口座に大金が入っていた遠藤先生が医局員に奢るという約束は、日程の調整が難航し、いまだ実現されていないが、医局員たちは首を長くして待っていることも知っている。奢りではなくて自腹を切ってまで最愛の人と呑みに行きたいと思っている医局員は数多い。まさかゲイバーに連れていくことは出来ない。夏輝と知り合った尤もらしい口実を考えるのは祐樹の役割だ。
「そうね。清水先生、斎藤の様子はどうだった?」
熱発で倒れた看護師を真っ先に心配する杉田師長は、本当に部下思いだ。
「熱も6.2℃まで下がりました。今は眠っています」
杉田師長は安心したように頷いている。
部下思いとはいえ、今の救急救命室に死に直結しそうな患者がいないからで、もしそういう患者がいた場合はそちらを優先する。それが杉田師長の「あれもこれもしようとしない!優先順位をまず考えろ」という固い信念だ。
「――」
師長は二秒ほど考えていた。
「吉田、清水先生に骨折の整復をまかせなさい。そして、田中先生が知っている母親を教えてもらって、容態説明をして。ということで清水先生、お願いするわ。心筋梗塞もね、街中に設置されたAEDをもっと積極的に使う人が増えればいいんだけど、躊躇う人が多いのが難点だわよね」
苛々とした感じで短く切った爪を噛んでいる。祐樹は内心(それだ!)と思ったが、表情には出さない。吉田先生を待って祐樹は処置室を出た。
「あの女性がユズル様のお母さまです」
杉田師長には全く買われていない腕前の吉田医師だ。その証拠に即戦力として重宝している清水研修医や、今は脳外科のアクアマリン姫こと岡田看護師のデート中の久米先生を杉田師長は、呼び捨てをせず、先生と呼んでいる。杉田師長の二秒間の沈黙は全体的な視野を持つ清水研修医を容態説明に指名しようとしたのかもしれない。ただ、清水研修医は若いので、中年のベテラン医師といった押し出しの強い吉田先生に任せようと判断したのではないだろうか。
「夏輝さん、お待たせしました。心臓外科から受け入れ可能という連絡は、まだ来ていません。本来ならばすぐに移送するのですが、どうやらあちらでも容態急変があって、准教授が対応に当たっています。もうしばらく救急救命室で様子見といった感じです。意識こそないですが、ニトログリセリンが効いていて、先ほどよりも容態は安定しています」
処置室に行ったときに、主治医を務める有瀬さんのバイタルをチェックするのは当たり前だ。
「そうですか。安心しました。父は大の病院嫌いで、健康診断も『忙しい』という建て前で受けていません。それに一日で二箱吸うヘビースモーカーです。だからこんなになるまで放置していたのだと思います」
―――――
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