- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」1
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」2
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」3
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」4
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」5
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」6
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」7
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」8
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」9
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」10
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」11
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」12
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」13
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」14
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」15
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」教授視点 1
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」教授視点 2
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」 16
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」教授視点 3
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」 17
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」教授視点 4
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」18
- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」 19
「そうみたいですね。今は容態が安定している父よりも、もっと深刻なかたがたくさんいらっしゃる……」
夏輝は自然に声を落としている。「グレイス」でも感じた、周囲の空気を読む繊細さ。今もまた、命の境界線にいる患者さんやそのご家族への配慮がその表情に滲んでいる。
「心臓外科の病棟でしたら、夜間は比較的静かです。そこで改めて、お父様の容態を詳しく。そして――」
祐樹はわざと途中で言葉を切った。その含みに、夏輝は目を大きく見開き、すぐに深く頷いた。祐樹が医師だと着衣で判断した女性が「つっかけ」としかいいようのない履物の音も荒々しく近寄ってきた。
「先生!息子のユズルはっ、助かるんでしょうねっ??」
真っ青な顔に必死の形相で尋ねてきた。夏輝は、祐樹とその女性から一歩退いた。夏輝なりの気遣いというか空気を読んだのだろう。
「申し訳ありません。私はユズル様の主治医ではないため、詳しいご説明は担当医からあるかと思います。すぐに確認してまいりますので、どうか少しだけお待ちいただけますか?」
その女性の顔立ちや髪型・服装を脳裏に強く刻みつけた。こういうときに人違いをしてしまえば、ご家族の心配は簡単に怒りへと転じてしまう。医師だからといってすべてを把握なんて出来ませんと言いたいのが本音だった。
夏輝に視線を遣ると、大きく頷いている。まるで「父の容態は安定しているのだから、ユズルさんとユズルさんのお母さんを優先してほしい」とでも言うような感じだった。頭をやや深く下げた祐樹は処置室へと戻った。
先ほどはまるで野戦病院のような阿鼻叫喚だったが、今はやや落ち着きを取り戻している。
「田中先生!心肺停止で運び込まれたさっきの患者、もう大丈夫だろう。今度こそ、先生の蘇生最多記録、オレが抜く!わははは」
柏木先生のテンションが高いのは、手のひらからこぼれそうだった命をその手で救ったという事実により、脳内麻薬が分泌されているからに違いない。ここで祐樹が煽り混じりの返答をすると、緻密に手を動かしている柏木先生の邪魔になるので控えよう。外科医は負けん気の強い人間が多く、柏木先生もその例にもれない。だから、かえって奮起するかも知れないが、「沈黙は金」だ。
祐樹は、柏木先生の言葉をスルーして杉田師長に歩み寄った。救急救命室の名物ナースにして、実質的なトップだ。とある教授が学生をぞろぞろと引き連れた、いわゆる大名行列で救急救命室に威風堂々と現れ、「ああ、ステってますね」と言った教授を平手打ちし、「ステっているかどうかは私が決める。ここでは私が法律よ!」と言い放ってお手本のような蘇生術を施し、その患者さんの命を救ったというのは救急救命室の語り草になっている。祐樹は教授の名前にぼかしが入っているため信憑性に疑いを持ってはいる。しかし、そういう逸話が真実のように語られるのも、杉田師長の確かな実力に裏打ちされた自信満々な態度ゆえだろう。
「ユズルという名前しか分からないのですが、お母さまらしき人が控室でかなり取り乱していらっしゃって……、容態説明に出たほうがいいかと」
杉田師長は「またか」と言いたげに、描いたり抜いたりしていない眉をひそめた。
「田中先生、苗字までちゃんと聞きなさいよ。……『ユズル』ね。吉田が今、骨折の整復しているから、それが終わったら控室に行かせるわ」
実力至上主義の彼女は、腕の良い医師にしか「先生」と呼ばない。そういえば、最愛の人が学生時代にボランティアをしていたと聞いている。多くを語らないので具体的に何をしたかは知らないが、猫の手も借りたいときに医師免許取得前の彼が医療行為を行っていた可能性は高い。もちろん、杉田師長が付き切りで指導しただろう。厳密には違法行為だが、最愛の人も「現状だと自分しか救える人はいない」という使命感が勝った可能性がある。そして、ここは杉田師長が事実上の独裁者の地位にいる大学病院の「出島」なので漏らす医師や看護師はいない。だからこそ、やむにやまれず彼が行った「違法行為」も闇の中に葬られたと信じたい。
「すみません。これから気を付けます。私は、有瀬誠一郎さんのご子息に容態説明の続きをしに戻ります」
杉田師長は、きりりと眉を吊り上げた。
「あのね、田中先生、有瀬さんは先生が担当したでしょ?だったら息子にきちんと最後まで説明する責務があるの。いつも言っているでしょ?『あれもこれもしようとしない!優先順位を即座に判断する』って。その基本を忘れてない?」
彼女の言うことは、しごく尤もだった。「実は息子の有瀬夏輝さんとは知り合いでして」など言い訳めいたことは言いたくなかったし、言ったら言ったで「どんな知り合い?」と聞かれたら厄介だ。白々しくも真っ赤な嘘を吐くのは祐樹の得意技だが、野性の勘を持っているかのような彼女に見破られたら嘘に嘘を重ねることになる。そうなれ、どこかに綻びが出てしまう。だからこそ、それは避けたい。
―――――
もしお時間許せば、下のバナーを二つ、ぽちっとしていただけたら嬉しいです。
そのひと手間が、思っている以上に大きな力になります。

にほんブログ村

小説(BL)ランキング

コメント