- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」1
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- 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」教授視点 1
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家族控室には、スマホを弄りながらぽつんと佇む青年が一人いた。
他は事故の知らせを聞いて駆け付けた人たちがあちこちに集まり、小さな輪を作っていた。互いに肩を寄せ合い、不安を分け合うように。
誰とも言葉を交わすことなく輪の外にいる青年、あれが有瀬誠一郎の息子さんだと祐樹は察した。電話でもお母様は遠方に出張中だと言っていたので間違いはないだろう。祐樹は彼に近づくと、青年は苛々とした感じで足踏みをしながら、うつむいてスマホの画面を見ていた。彼は急いで来たのだろう、濡れた髪はまだ整えられておらず、パジャマ代わりになりそうな白いTシャツにジャージのズボンという姿だった。しかし、家族が搬送されたと聞けば、もっと乱れた格好で駆けつける人も少なくない。パジャマにカーディガン、あるいは室内用のスリッパのままで来院する人だっているのだ。そう考えれば、十分まともなほうだった。
「有瀬夏輝さんですね?救急救命医の田中と申します」
祐樹はいつものように穏やかな声で名乗った。実際には香川外科所属の心臓外科医で、救急救命室には助っ人で来ているだけだ。しかし、患者さんの家族にとってはそんな区別などどうでもいいだろう。祐樹が長々と自己紹介をするよりも、心筋梗塞で搬送された父親の状態と、これからの治療方針を聞くことが優先順位ははるかに高い。彼はスマホを胸のポケットに入れている。チラリと見えたのはLINEの画面で、きっとお母様の香織さんに必死で連絡を取ろうとしていたのだろう。
「父がお世話になって本当に感謝しています。でも、田中先生って、心臓外科では?」
遠慮がちな夏樹さんの声に、無遠慮だと自覚しながらも、ついじっと顔を見つめてしまった。心臓外科所属だと知っているということは、大学病院のサイトを見たのかもしれない。しかし、濡れた髪、パジャマにも代用できる恰好のまま駆けつけたこの青年が、そこまでするだろうか?ちなみに最愛の人と同居する前の祐樹はパジャマを持っておらず、夏輝さんと同じような格好、いやもっとラフな服で寝るのが日課だった。最愛の人がアイロンまでかけてくれたパジャマを当たり前のように用意してくれ、救急救命室から帰ったときにはいつもの場所に置いてある。その細やかな心遣いも最愛の人の祐樹への愛情が感じられ、パジャマに着替えてからベッドに入るのが日課になっている。
それはともかく、髪を整え、流行の服を選び、何度も等身大の鏡でチェックしたなら――彼はあの夜、ゲイバー「グレイス」で一度だけ会った青年だ。祐樹と一緒にいた最愛の人に「DEIがもたらす悪影響」について、ゲームファンの友人の生の声を聞かせてくれた。最愛の人は興味深そうに聞いていた。現在の行き過ぎたDEIがさらに加速した場合を憂慮していた最愛の人は、「ゲイというだけで差別される世の中が来たら、真のDEIが浸透している国に移り住みます。英語圏なら心臓外科医としてどこでもいいので。ただし、祐樹と一緒という大前提があります」という祐樹には嬉し過ぎる言葉を聞いたナツキは、通っている美容師専門学校の課題にも真面目に取り組み、そしてハリウッド女優の専属美容師になると目を輝かしていた。そうだ、あのとき最愛の人はナツキに名刺を手渡していた。
だからこそ、「京都大学病院」と言うときに妙な間があったのだ。祐樹の声もおそらく分かった上で、名前を言ってはいけない気がして、口に出すことを躊躇った。その沈黙だったのだろう。最愛の人はナツキの空気を読む力にとても感心していた。その力が今夜も発揮されたに違いない。
「奇遇ですね。お母さまとは連絡、つきましたか?」
スマホを戻す、苛立ったような仕草から、それはないだろうと判断したが、祐樹はあえて淡々と問いかけた。夏樹さんは案の定困ったように眉を曇らせた。
「まだ接待中みたいで、鬼電をしても『おかけになった…』というアナウンスばっかで、LINEにも山のように『連絡して』とか『父さんが心筋梗塞で京大病院に』など入れてるんですが、既読がつかなくて」
困り切った様子の夏輝に祐樹は微笑を浮かべた。彼がジャージではなくて胸ポケットにスマホを入れたのはLINEの通知を即座に知りたいからだろう。
「私もその非情なアナウンスは聞きました。急いでいるときには本当にイラつきますよね。ところで、お父様、つまり有瀬誠一郎さんの容態ですが」
夏輝は背筋を伸ばして真剣な表情を浮かべている。
「容態は、現在は安定しています。ただし、冠動脈に狭窄が三か所見つかっており、心臓外科……通称・香川外科に受け入れを打診しました。準備が整い次第、そちらに移送する予定です」
普段なら、患者さんの家族に向かって「通称・香川外科」などとは言わない。それは病院内・医局内そして医師同士の会話に使う俗称にすぎないのだから。しかし、祐樹の80%の読み通り、彼があのナツキなら、きっとその名前に反応するはずだ。案の定「香川」という名が出た瞬間、夏輝さんの顔がふっと明るくなった。その一瞬の光に祐樹の確信は100%になった。やはり彼は、ゲイバー「グレイス」で出会ったあの青年、ナツキで確定だ。
「あいにく、ここでは落ち着いてご説明できる環境ではありません」
夏樹と話している間にも家族控室には、多重事故に巻き込まれた患者の家族たちが続々と詰めかけていた。「息子の容態!あの……確かるんでしょうか!?お願いします、どうか……!」「誰でも良いから説明してください!」」祈るような声、泣き崩れる声が交錯し、空気は張り詰めていた。
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