「気分は下剋上 知らぬふりの距離」10

Uncategorized
This entry is part 10 of 23 in the series 知らぬふりの距離
この作品には、『叡智な一日』をお読みの方にとって
「どこかで見覚えのある青年」が登場します。
本編とあわせてお楽しみください。

 祐樹が「夏輝」と書いた該当箇所をタップすると、今度は呼び出し音が鳴っている。
『もしもし、父さん、珍しいね?何の用?』
 有瀬氏のスマホから聞こえてくる声は、祐樹がどこかで聞いたことのある声だと思ったが、最愛の人のような卓越した記憶力はない。だから、現在主治医を務める患者さんやそのご家族など、覚えなければならない人以外は、即座に記憶のゴミ箱に移す習慣があった。
「私は、京都大学大学病院、救急救命室の者です。失礼ですが、有瀬誠一郎さんのご子息でいらっしゃいますか?」 
 「父さん呼び」なので、間違いはないだろう。
 ほとんどの人は、救急救命室からの電話だと知ると取り乱す。「かっ……家族に何かあったんですか?いっ、命に別状はないんでしょうね!?」と、聞き取るのが難しいほどの早口で言われるか、あるいは「……あっ、え?何が、あったんですっ?」と混乱して日本語になっていないような断片的な言葉を金切り声で発せられたこともあった。
 そのようなペースに巻き込まると、余計、家族の不安を煽ることになる。だから落ち着いた丁寧な口調がベストだと杉田師長も常々言っている。ちなみに彼女の電話の対応はいつもの怒号からは想像もつかないほど、冷静でそして、どこぞのマダムみたいな上品な口調だ。
『え?え?そうですけど、父さん、いや父に何かあったんですか?』
 案の定夏輝という息子さんは先ほどよりも高い声と早口だった。
「心筋梗塞で当病院に搬送されました。しかし、今のところ、命に別状はないです」
 普段よりも落ち着いた、冷静な声で話すと、夏輝さんは『良かったぁ!』と心の底から安堵したような声が聞こえてきた。父親との関係性は良好なのだろう。
「ただ、入院手続きや、手術同意書などに署名捺印していただく必要がありますので、なるべく早く救急救命室の家族控室に来ていただけませんか?印鑑は実印でなくとも構いません」
 祐樹は、名刺入れを見たあとに、財布も確認し、カードが入っているポケットの一通りチェックした。社会保険証があったのは記憶にあるので、夏輝さんに持参してもらう必要はなさそうだ。
「ちなみにお母様のお名前は?」
 多分、香織だとは思ったが、着ていたものからして、どの程度の規模かは分からないがCEOという肩書を持つ人でお金に余裕がありそうだ。そういう人は愛人とか秘密の恋人がいることも多いのは経験則で知っていた。何しろ香川外科では国内外から患者さんを受け入れている。財界人や富裕層も数多くいて、配偶者だと思いこんで電話したら愛人だったということを久米先生がやらかしたことがある。当然奥さんは大激怒し、「愛人風情に連絡が行って、私は会社の秘書からの連絡がきました」と言っていた。結局は最愛の人が心からのお詫びをして収まった。だから固有名詞は相手から言わせるのがコツだ。
「はい。有瀬香織です。ちょうど仕事で九州だったか四国だったか咄嗟のことで忘れましたが、とにかく地方に出張しています。今は多分接待をしている頃です」
 ますます聞き覚えのある声だと祐樹は思ったが、どこの誰かを特定できないのがもどかしい。ただ、それは大した問題ではなく、要は息子さんに手術同意書などにサインをしてもらうことだ。
「では、お母さまに連絡を取りつつ、急いで病院に来ていただけますか?」
 接待中ならスマホの電源をオフにしているか機内モードに設定してあるので、繋がらなかったのはそのせいだろう。
「はい!急いで向かいます。……京都大学病院の、救急救命室ですね」
 息子さんはなぜか病院名を復唱する時に不自然な間が開いた。京都大学病院は言うまでもなく京都の人間なら誰でも知っているというのに……?
「お願いします。タクシーで来られるのですか?」
 父親が心筋梗塞で救急搬送されたというショッキングな知らせの直後に自分で運転するのは、事故のリスクが高まる。
「はい。そのつもりです」
 スマホの向こうで歩き回るような音が聞こえる。きっと外出の用意をしているのだろう。
「夜間用の入り口にタクシーを停めて――運転手さんならご存知です。入口からは案内板に従って来てください。どうかお気をつけて、落ち着いていらしてください。お待ちしています」
 丁寧に言って電話を切った。処置室に戻り有瀬さんの容態を診た。彼の心拍数と血圧は、ニトログリセリンの静脈注射によって徐々に安定してきた。数値はまだ完全とは言えないが、臨床的にひとまず危機を脱したと言える状態だ。しかし、心臓外科からは珍しく黒木准教授から直接「二時間前に入院中の患者が容態急変を起こしたため、受け入れ体制が整うまで待ってほしい」との連絡があった。手技の腕は平均よりやや上といったレベルだが、香川外科の縁の下の力持ちともいうべき責務を黙々と果たしている。「体制が整い次第すぐに連絡する」と付け加えたのは准教授らしい責任感の強さを感じる。
 それから十五分後のことだった。
「すみません、心筋梗塞で運ばれた有瀬誠一郎の息子です」
 ちょうど家族控室にいた看護師が祐樹の耳に届けてくれた。「やった!拍動が戻った!」柏木先生の歓喜に満ちた声が背中から聞こえたが、祐樹は振り返らず、白衣の裾を翻して家族控室へと向かった。

―――――

もしお時間許せば、下のバナーを二つ、ぽちっとしていただけたら嬉しいです。
そのひと手間が、思っている以上に大きな力になります。

にほんブログ村 BL・GL・TLブログ BL小説へ
にほんブログ村

小説(BL)ランキング
小説(BL)ランキング

PVアクセスランキング にほんブログ村

リアル生活が多忙なため、更新時間や話数が不定期になります。
にほんブログ村人気ブログランキングの新着記事一覧からチェックしていただけますと幸いです。
Series Navigation<< 「気分は下剋上 知らぬふりの距離」9「気分は下剋上 知らぬふりの距離」11 >>

コメント

タイトルとURLをコピーしました