寒い夜に、屋台のおでんの話を。
静かな夜更けに、二話まとめて公開しています。
二人が腰かけている椅子は何と年季の入った瓶ビールキャリアをさかさまにしてその上に手作りっぽい座布団が敷いてあるだけのものだ。ただ、最愛の人は切れ長の綺麗な目に驚嘆の紅色の光を宿してワンカップ大関を飲み、大根を口に入れて満足そうな笑みを浮かべている。
「そういえば、例の地震ののち、陣頭指揮を執った貴方と私は特別休暇を与えられましたね。病院長も他の教授も道路が寸断されて誰一人として到着できていなかったのである意味当たり前ですが。あの時のことが思い出されます」
最愛の人はお母さまが心配だという理由で行動範囲が狭かった。彼が志望大学に合格したという知らせを受け、はかなげに微笑んだと聞いている。そして亡くなったのはそのあとすぐだ。大学時代は学業と救急救命室のボランティアで旅行にも遊びにも行かなかった、と元同級生の柏木先生が言っていた。卒業と同時にアメリカに行ったので、知っている場所は極めて狭い。
「あの地震」のあとの休暇では、狭い路地に昼間から営業している立ち飲みの店や午後二時頃にも関わらず500ミリリットルの発泡酒の缶を持って歩く中年男性を見て驚いていた。
最愛の人の過去は変えられないが、祐樹が一緒に色々な場所に一緒に行って、たくさんの思い出を作って過去の寂しい記憶の上書きができればと思う。
「あの時も楽しかったな……」
セピア色のため息を零している。
「しかし、今もとても楽しい。おでんも最高に美味しい。今度は何を食べようか、ものすごく悩む」
最愛の人は上気した頬に白く長い指を当てて楽しそうに思案している。
「大将、お勧めを三つほど見繕ってください」
祐樹の注文方法を聞いた最愛の人は感嘆めいたため息を零している。
「そういう頼み方があるのか。しかし、私は大根と玉子は外せないな、それに牛スジもものすごく美味しかった。玉子は黄身にまで味が染みていて……」
頑固そうな店主は最愛の人の紡ぐ言葉に満足そうな笑みを浮かべている。
「それはな、ちょっとしたコツがあるんやけど、理屈は難しゅうないんや。注射器あるやろ?茹でる前の生卵に出汁を入れた注射器で黄身にブスっと刺して味をつけるんや。慣れたら誰でもできるようになる」
最愛の人はなるほどといった表情を浮かべ、店主に深々と頭を下げた。
「そうなのですね。とても参考になりました。お教えくださって有難うございます。次におでんを作るときに試してみます」
最愛の人はシリンジ操作もお手の物だし、しかも多種多様の注射器が病院には置いてある。各科の備品管理をうまくすり抜ければ、黄身に到達できるシリンジを入手するだろうなと思った。
「玉子と大根、そして牛スジをお願いします。あと、大関をもうワンカップ」
その洒落の聞いた言葉に祐樹と店主は笑ってしまった。ちなみに先ほどいたタクシー運転手らしき人は屋台のシートから出て行った。きっと休憩が終わったのだろう。
「兄ちゃん、面白いこと言わはるんやね」
店主は最愛の人が狙って言ったと勘違いしているようだ。最愛の人はきょとんとした表情を浮かべ、カシミヤの空色のセーターから伸びた花の芯のような首を優雅に傾げている。
「このお酒の呼び名は『ワンカップ大関』なのです。それを崩して言ったと思われていますよ」
祐樹が薄紅色の耳朶に小さな声で告げた。
「――私はそんな貴方が大好きです」
さらに小さな声で囁くと耳がローズピンクに染まった。
「出汁もこんなにたっぷりとかけて頂いて有難うございます」
新しく出てきたおでんの深皿には飴色の大根がすっかり水没してしまうほどの出汁の量だった。
「ええ食いっぷりやさかい、気に入ったで。そのしるしやさかい気にせんとって」
最愛の人はとても真剣な表情で出汁を少量口に含み、舌で味を覚えようとしているようだった。祐樹もこの屋台のおでんを気に入ったことを察したのだろう。
「別に再現しなくてもいいですからね。食べたくなったらこの店に来ればよいと思います」
小さく告げると最愛の人は納得したように頷いた。
「兄ちゃんたちは病院関係者とちゃうんか?」
今は午前四時過ぎだ。普通のタイムスケジュールで勤務している人間が来る時間ではない。
「そのようなものです」
無難に答えた。
「そやろと思たわ。この屋台にも病院関係者がようさん来なはるんや。だから蕎麦屋の屋台をしとる友達に声をかけたら早速移ってくるんやて。おでんだけやと腹もちが悪いやろ?それに、場所代も折半できて『ういんういん』とかいうやつやねん。そいつの蕎麦も旨いから、また寄ってやってな」
それを言うならwin-winだろうと思ったが口には出さない。お勧めで出てきたタコの味も歯ごたえも最高だった。
「ご馳走様。とても美味しかったです。また寄りますね。蕎麦屋さんが出来ればきっと病院関係者も喜びます。ちなみに、女性一人でも入っても大丈夫ですか?」
夜勤明けの看護師が「軽く食べて帰りたいけれども、店がない」と言っていたのを祐樹は思い出した。
「それは大丈夫や。酔って絡むようなヤツはこの屋台からたたき出すさかいに」
頼もしい返事だったので、医局と救急救命室の看護師にはアナウンスしようと思った。お会計は二人で二千円以下という価格も嬉しい。かなり食べたし飲んだというのに。
「お蕎麦屋さんが出来るのも楽しみです。ではお休みなさい」
最愛の人が淡い笑みを浮かべて店主に挨拶している。
「祐樹、とても美味しかったな……。ワンカップ大関という日本酒を初めて飲んだがとても美味しかった。ああいう店も隠れた名店なのだろう。また行きたい!」
最愛の人の薔薇色の言葉に約束の署名代わりにキスで答えた。底冷えのする京都の街の、人っ子一人いない道路で交わすキスは普段より熱くて激しい接吻だった。
心と身体にお互いの熱がしみ込んでいくような濃厚なキス。
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