「ただいま帰りました」
きっと最愛の人はベッドの中で眠っているだろうとそっと玄関を開けてうがいとアルコールで手指消毒を済ませた。極力音を立てないように歯磨きをして、パジャマに着替えて寝室に入った。ちなみにシャワーは救急救命室で済ませてある。
「祐樹、お帰り。外は寒かっただろう」
最愛の人の眠そうでもない声がフットライトしか灯っていない寝室にオレンジ色の花が咲いたようだった。
「起きていらっしゃったのですか?明日に差し障りますので、どうかお休みください」
睡眠不足だって注意力の敵だ。
「有難う。ただ、今日は――いや正確には昨日だな。珍しく手術が午前しかなかったのでそう疲れてはいないの」
ベッドに上がり、ただいまのキスを交わした。
「祐樹は今夜忙しかったのか?」
唇を重ねるだけではなく、祐樹が吸った場所が紅梅の花のように色づいているのが夜目にも、はっきり分かった。
「そうでもありませんでした。処置室にいるよりも休憩室で休んだり仮眠を取ったりする時間のほうが多かったですね」
午前三時の静寂の中で交わす密やかな会話も何だか、それだけで嬉しかった。
「そうなのか?だったら一時間くらいは私に時間をくれないか?」
最愛の人の怜悧な声が薄暗い空間に溶けていくようだった。
「いいですよ。さほど睡眠量を必要としない体質なのは、ご存知ですよね?」
最愛の人が何をしたいのか分からないが二人で過ごす時間は宝石のように貴重だ。
「今日は七草粥の日だろう?だから作ってみた。祐樹にも食べてほしいと思っていたのだけれども、夕食を一緒にする機会は平日にはほとんどないので、半ば諦めていたのだ」
最愛の人はベッドから下りてガウンを羽織っている。
「いいですね。ちょうど小腹が空いていたのです」
実は久米先生がコンビニで山のように唐揚げを買って食べていて、「もう食べられないのですぅ!だから、田中先生も一つで良いから召し上がってください」と懇願され油分でべたべたの唐揚げを一つ食べたがそれは言わなくていいだろう。
「今、温める」
祐樹もお揃いのガウンを羽織ってキッチンへと移動した。
「お粥だけでは何だか寂しいのでハマグリのお吸い物もついでに作った」
ほどなくしてお盆に載せたまま七草粥とお吸い物が、祐樹の前に運ばれてきた。
「七草粥は実家にいた頃母に無理やり食べさせられました。とはいえ、七草ではなく、水菜しか入っていないものでしたが」
最愛の人は几帳面な性格なので七草全部が入っているだろうと思っていたが、お米が原型ではなくて細かくなっていて、青々とした七草が目にも鮮やかだった。きっとお米も工夫されているのだろう。そして、大ぶりのハマグリが入っているお吸い物も、ほかほかと湯気が立ち上っていて幸せの象徴のような気がした。
テーブルの向かい側に座る最愛の人の顔もほんのりと紅いし、何より祐樹が大好きな切れ長の目には笑みがふんだんに湛えられている。
「お箸ではなくてちり蓮華で食べるほうが早いな……」
身軽な仕草で立ち上がって食器棚から緑色のちり蓮華をトレーに載せて祐樹の前に細く長い指で置いてくれた。
「いただきます」
手を合わせてちり蓮華でお粥を食べると、こくのある出汁が特徴的だった。
「これは貴方がいつも作ってくださるお出汁とは異なりますね。何だか中華風の感じがします」
最愛の人は白薔薇のような笑みを浮かべた。
「そうだ。よく分かったな。長岡先生が知人から中国土産でもらった調味料なのだが、『絶対に使えないので差し上げます』とお裾分けしてもらったものだ。味見して美味しそうだからお粥に入れてみたのだが、味はどうだろうか?」
最愛の人はとても真剣な眼差しで祐樹を見ている。彼は祐樹好みのものを一品でも多くレパートリーに加えたがっているのは知っていた。その気持ちはとても嬉しい。
「お出汁も美味しいですが、七草のシャキシャキとしていながらしんなりとしているのもとても美味ですよ」
最愛の人は紅薔薇のように微笑んだ。
「そうか。気に入ってくれて本当によかった。十五日には小豆粥を作ることにする。鏡餅を割ったお持ちも入れるので出汁は日本風だがいいか?」
最愛の人がガウンから綺麗に伸びた細く長い首を祐樹のほうに向けている。
「もちろんです。貴方が作ってくださるものは何でも美味しいですからね」
二人が食べ終わって滅多に使わない食洗機に祐樹が入れ、感謝と約束のキスを交わした。そのキスはお互いの幸せを分け合うような接吻だった。
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