「気分は下剋上 巻き込まれ騒動」94

「気分は下剋上 巻き込まれ騒動」
This entry is part 20 of 25 in the series 気分は下剋上 巻き込まれ騒動

「他でもない貴方にそう言っていただけて、本当に嬉しいです」
 最愛の人の、誇らしく頼もしそうな眼差しと視線が交わる。その一瞬に、言葉よりも深いものが伝わった気がした。
 エレベーターに乗り込むと、森技官がヤクでもキメているような感じだった。祐樹が麻酔「薬」は打ったのは確かだ。森技官の表情はまるで多幸感に満ちあふれ、普段の沈着さなどどこに飛んでいったのか、今にも踊り出しそうな勢いだった。もちろん、祐樹が投与したリドカインに、そんな副作用は存在しない。
 救急救命室が森技官の最も恐れていた状態、つまり血や内臓の臭いが溢れかえり、患者が多数運び込まれて野戦病院さながらの状態になっていなかったことに今更ながら安堵の気持ちでハイになっているのかもしれない。または、注射も怖がって直視できなかった森技官が、意外と痛くなかったことも原因かもしれない。
 最愛の人と「どうしたのでしょうね?」という意味のアイコンタクトを交わした。最愛の人は曖昧な笑みを浮かべ細く長い首を白鳥のように傾げている。恋人の呉先生が真っ先に異常に気付きそうなものだが、局部麻酔の手技をおさらいしているのか沈思黙考といった感じで反応がない。
「ヘリポートに併設された待機所は『例の地震』の時と同じく、ボロ……いや、歴史的な由緒を感じるのですか?」
 森技官は「例の地震」が起こった時には神戸大学病院にいて、ヘリコプターに積載できるぎりぎりの量の医薬品を運んでくれたので、その時の記憶があるのだろう。ただ、言葉は明晰で誤りもないが、話し方はテレビで見る芸人のように、どこかハイテンションだった。普段の呉先生ならそういう変化には敏感に気づくはずだが、今は打ったことのない局部麻酔で脳のリソースを割かれているのだろう。
「あの時以来実際に足を運んではいないのですが、改修工事を行ったという話は聞いていませんね」
 怜悧で落ち着いた最愛の人の声が森技官とは好対照だった。
「救急救命室がセンターに昇格したら、ドクターヘリも導入予定です。しかし、採算重視の事務局長の強硬な反対を受けていまして、厚労省から補助金などは出ないのでしょうか?」
 その程度の見返りを祐樹としては欲しい。救急車では間に合わなくてもドクターヘリで急行すれば救える命も多数ある。
「杉田師長は、センターに昇格しても待遇は変わらないのですか?」
 師長が森技官を気に入ったように、森技官の彼女の有能さを高く評価しているような気がした。
「センター長に内定しているのは心臓外科所属ながら、祐樹と同じく救急救命室に派遣している柏木先生なのです。祐樹よりも救急救命室歴は浅いので、杉田師長には怒鳴られて鼓膜が破れると思ったことが何回もあると言っていました。ですから、ポストは上でも力関係は杉田師長が勝ると思います」
 祐樹はあまり怒鳴られたことはないが、柏木先生は「柏木っ!!あれもこれもしようとしないっ!!優先順位をまず考えて!!今は心臓、骨折の整復は後でいいっ!!」などの迫力と圧を感じる怒号が毎晩のように救急救命室に響いていたのは知っている。ただ、今は柏木先生への怒鳴り声はなくなっている。
「そうですか。担当の者によく言っておきます」
 このテンションで言われても、厚労省に着いたら忘れるのではないかと思うのは祐樹だけではないはずだ。ヘリポートに出たら、職員が緊張した様子で近寄ってきた。
「北教授から承っております。香川教授!気が付かずに申し訳ありません」
 最愛の人の姿を捉えた瞬間、背筋が凍りついたように直立不動になった。
「いえ、お気になさらないでください。私は職務で来たのではなくあくまでVIPの付き添いですから」
 穏やかな笑みを浮かべている最愛の人に深々と一礼をした後に、慌ただしく待機所へと走り去った。
「さすがは香川教授ですね。病院の看板教授であり、稼ぎ頭という威光の賜物でしょうね」
 あまり上手くない口笛を吹いたのちに、森技官が感心したように言った。森技官に口笛は全く似合わないし、聞いたこともない。普段は吹かないせいでこんな貧弱な音なのだろう。
「ささ、どうぞ。コーヒーを用意しました。あいにくインスタントコーヒしか用意がなくて申し訳ないです」
 待機所に入ったら四人分のコーヒーが用意されていた。
「ありがとうございます。ちょうど喉が渇いていたので嬉しいです」
 ふんわりとした笑みの花を咲かせた最愛の人がスタッフに向かって軽く頭を下げている。こうして自然に笑みを浮かべ、お礼を言えるようになったのも、祐樹だけが知っている最愛の人が努力を重ねてきた証だ。
「ここだけの話、清川大臣は、少子高齢化に伴う労働力の低下を、非常に憂慮されておりました。一定の語学力、そしてスキルを持った外国人を受け入れるという案は国民感情を逆なでするので反対意見も多いです。私は、治安が悪くならないのであれば、受け入れには賛成なのですが。それはともかく、労働力という観点からすれば、八十歳以上のかたは物理的に無理ですよね。そして、社会に出ることもなく親の年金で生活し、ネットにしか居場所がない五十代の引きこもり男性も腹立たしいです。かつてネットの中で愛国運動をして、少しでも逆らうネットユーザーに名誉棄損罪や侮辱罪に抵触する言葉を浴びせかけた人間を逮捕したところ、そういう境遇の人が九割を超えていました――」

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