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- 「気分は下剋上 巻き込まれ騒動」最終話
祐樹は今、救急救命室がどんな状況なのか当然把握できていない。最悪の場合、血が床一面を覆い、臓器と血の臭いで野戦病院さながらの状況も充分あり得る。
森技官はそのどちらも生理的に無理で、かつて最愛の人と訪れた城下町では珍しいイノシシの肉が売られていた。祐樹はその肉を、ほんの少しの悪意とともに持ち帰り、呉先生の通称「薔薇屋敷」で行われたバーベキューに持参した。イノシシの生肉が網の上で焼けるたび、森技官は口元をこわばらせ、広い額には不自然な汗が浮かんでいた。予想はしていたものの、肉の匂いと赤み、血の名残。そうしたものが、森技官には「見えない地雷」だと確信した。
そんな森技官が、あろうことか救急救命室に足を踏み入れるという。それは、生半可な覚悟では出来ない――祐樹は心の底からそう確信していた。後部座席に座る最愛の人と呉先生も、息を呑む気配を見せた。二人とも、森技官の決意の強さを――そして、その奥にある生理的嫌悪すら乗り越えようとする姿勢を――痛いほど理解しているはずだった。
車内には約三十秒間の沈黙が落ちた。静寂を破ったのは、最愛の人の凛とした声だった。
「……分かりました。しかし、ご存知とは思いますが、リドカインの効果は最大でも二時間しか持続しません。たとえ救急救命室で現役として働く、最も適任な祐樹が投与したとしても、ヘリコプターで東京に着いた頃には、すでに切れている可能性が高いです」
一度、言葉を区切るように呼吸ともため息ともつかない微かな音を立てた最愛の人は、隣に座る呉先生の肩にそっとしなやかで長い手を置いた。その仕草には、静かで確かな励ましが宿っているような気がした。厚労省だからといって医師免許を皆が持っているわけでもないだろうし、森技官のようなペーパードライバーならぬペーパードクターだって多数存在するだろう。だったら、精神科医とはいえ現役の呉先生しか適任者はいないと最愛の人も判断したのだろう。
「……分かりました。オレ――いや、私が責任を持って注射します。精神科の医局にいた頃は、暴れる患者さんに注射する経験は幾度となく経験しています。もちろん、メンズナースの助けは借りていました。……あいにくリドカインは打ったことはないのですが……」
決然とした真っすぐな瞳がミラーに映った。森技官は苦痛を忘れたかのような表情を浮かべて後部座席を見ている。野のスミレのような可憐な声がやや硬く聞こえたのは、血が苦手な呉先生にとっても救急救命室が鬼門中の鬼門だからか、それとも、リドカインという薬剤の扱いに慎重になっているせいなのか――その判断はつかない。
「しかし、ブランクはありますが、田中先生の手技を余さず見て、確実に覚えます。……田中先生、どうかご指導をお願いします」
呉先生も決死の覚悟を決めたような表情で深々と頭を下げた。
「分かりました。アドバイスも含め、全てお教えします」
こんな二人の覚悟を見せられると助力しないわけにはいかない。出来るならば、救急救命室が凪の時間でありますようにと心の底から祈ってしまう。とはいえ、祐樹も最愛の人と同じく無神論者なのだけれども、こういう都合のいいときに神頼みをしてしまうのは、日本人だからだろうか。
「良かった……少なくとも救急車は停まっていない」
最愛の人の声は青薔薇のような趣きだった。彼も学生時代に救急救命室のボランティアをしていて、大学の講義では学べないことを色々と覚えたと言っていた。それはともかく、救急車が停まっていなくても、処置室に入れば開胸心臓マッサージが行われている可能性だってあることは最愛の人も承知しているからこそ「少なくとも」という言葉を紡いだのだろう。救急車専用の駐車場に停めるわけにはいかないので、なるべく近くに停車し様子を探るつもりでさっさと車を降りた。
「あら?田中先生どうしたの?押しかけ助っ人?でも、今夜は人手が余ってるのよ」
聞き覚えのありすぎる甲高い声が豪胆な感じで響いた。救急救命室の法律とも天使とも呼ばれている杉田師長が駐車場にいるということは、搬送された患者さんは既にバックヤードの病棟に送られ、処置室の床も洗い流されている。まずはそのことに安堵の吐息を漏らした。
「あら!香川教授まで。何かあったの?」
杉田師長も実力主義者なので、有能な医師は厚遇し、権威だけの教授職が邪魔しにきたときには頬を叩いた逸話の持ち主だ。最愛の人が安堵の色をわずかににじませながらも、真剣な顔で車から降りて、一礼した。
「実は、リドカインを投与しなくてはならない患者さんを運んできました。師長のお力で何とかならないでしょうか?」
滅多なことでは動じない杉田師長がぽかんとした感じで絶句している。
「……香川教授、ここは救急救命室ってことは分かってるわよね?」
救急車で搬送された患者さんを診るのが救急救命室だ。筋が違うと言いたいのだろう。ここで拒否されたら森技官と呉先生の決死の覚悟が無駄になる。
「この件は、北教授もご存知です」
実際のところ北教授が許可を出したのはヘリポートだけだが、祐樹の得意技の一つ「嘘も方便」を発動した。

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