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- 「気分は下剋上 巻き込まれ騒動」最終話
「――田中先生!ソコじゃないんです!言うのも、すごく恥ずかしいんですがっ……口元を注視してください!!」
最愛の人は、先ほど森技官のスマホを見て表情の選択に苦慮したような表情を浮かべていた。しかし、それは森技官のスマホをスワイプすると呉先生の画像が現れたからで、じっくりとは見ていないのだろう。彼は隣にいる祐樹にもよく見えるよう、スマホの画面をそっと傾けてくれた。
――口元……おそらく最愛の人が言った行為の後で撮られた画像なのだろう。呉先生の唇はいつもよりも赤く色づいている。そしてほんのり開いた唇の端から、つぅ……と一筋の滴が垂れていた。それは透明で、光を受けてかすかに煌めいており、まるで蜜が零れたかのように艶めいている。
「……あ、これ……よだれですかね?」
最愛の人も小さく頷いている。
「蜜っぽいと思っていたのだけれども、そうみたいだ」
まったく動じた様子もない。呉先生が、まるで怒り狂った真っ赤なスミレのようだ。何だか羞恥と怒りのせいで、タンポポの綿毛のように飛びそうなスミレ……。そして床の上では森技官が死にそうになっている。祐樹と最愛の人が処置したとはいえ、割れた爪と腫れた甲の足を軸足にして立ち上がったせいだろう。
「……悪意だなんて、とんでもないです。この滴りも含めて何だか天使の絵みたいに綺麗だったものですから……そのう、名画を撮ってみたいという、そう!!芸術家としての本能がうずいたといいますか……」
その軸足を使い、爪先立ちで土下座でもしかねない勢いで、森技官が小さな声で弁解している。……森技官がよりにもよって芸術家?緻密な銀の蜘蛛の巣を張り巡らせた情報の収集家、そして機が熟したと判断したときにだけ、その糸を巧みに引いて事態を動かす策略家、それが祐樹の知っている森技官だ。たしかに彼の網は見事だし、美しいかもしれないがそれを芸術とは言わないだろう。森技官の頭の中でのみ構築されて、具現化されていないのだから。
「――寝顔よりもお二人が隣に座って一緒に笑っているシーンの画像をスマートフォンに大切に残しておくというのは?」
最愛の人の提案に、森技官は地獄に仏ということわざがそのまま文字で浮き上がったかのような表情が広がった。目元はパッと開き、口元は安堵でへにゃりと緩み、まるで溺れかけた湖から腕を引っ張り上げられた人のような顔だった。それがアルマーニのスーツに身を包み、どこからどう見ても中村トオル似の端整な顔立ちを持つエリート官僚様の顔面で繰り広げられているものだから、なおさらシュールだった。何かの高級ブランドのCMかと思えば、実際には「画像変更」という最愛の人のアドバイスに掬われた森技官の、限界ギリギリの安堵の顔だから呆れる。
森技官は恐るおそるといった感じで呉先生を見ている。祐樹もそれにつられて呉先生はどうなのだろうと、視線を転じる。いや、森技官の寝顔を撮って保存していた人だから、最愛の人の折衷案には異存はないだろう――祐樹の予測通り、「それなら許せる」という表情を浮かべていた。さきほどまで、すさまじい怒気をまとっていた顔が、まるで干天の慈雨に打たれたスミレのように、ゆるやかにほころんでいく。
最愛の人は、蓮の花の上に咲くような微笑を浮かべていた。
「ただし、この画像は、私が責任を持って消去します」
その声には一切の妥協を許さぬ硬さが印象的だった。その通告に、森技官は一瞬だけ――ほんの刹那、まばたきよりも短いくらいの動揺をみせた。しかし、すぐに、その表情はいつもの余裕ある笑みへと切り替わる。まるで「ええ、もちろん」という顔だ。……ああ、クラウドに上げてあるな、と祐樹は即座に察した。あの一瞬のまばたきが、サーバーの存在を告白していた。本人はきっと完璧に隠したつもりだろうが、呉先生に関することだけ芝居が甘いのが森技官らしい。
それにしても、足の甲をぶつけて爪まで割っているのに、この余裕の笑み。普通なら呻いて転げ回ってもおかしくないのに――この状況があまりにも異常すぎて、痛覚の神経回路がどこかで遮断されてしまったのかと思うほどだった。それはともかく、祐樹は、思わず口が動きそうになるのを抑えて、ぐっと沈黙を選んだ。沈黙は金。言葉を発すれば、呉先生の怒りが再燃すること必至だ。今ここで大事なのは、この騒ぎを何とか着地させること――そして、本来の目的である「呉教授」誕生へ流れを戻すことだ。そのためには、森技官のクラウドくらい、気付かなかったことにしよう。
「あ!でも、ウチに自撮り棒とかないんです……」
呉先生が思いついたように悲痛な声を上げている。
「ちなみにウチにもありません。お互いのスマートフォンに画像が必要なのですよね?リビングに移動して祐樹と私が撮影するというのはどうですか?」
最愛の人の提案に二人の恋人は喜色を浮かべていたが、祐樹としては、正直なところ「LINEで共有すればいいのでは?」とも思った。ただ――その「共有」という言葉が呉先生の脳内でクラウドの存在と結びつく可能性があまりに高い。やはりここは、沈黙は金を貫くべきだ。

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