「え?私ですか……」
最愛の人は突然の指名に、一瞬だけ目を見開いたものの、すぐに怜悧で涼やかな表情へと戻った。
「私なら爪片が皮膚に食い込んでないか、メスで切開して確かめます」
この上もないほどの真顔と、淡々とした声が「非常時」のキッチンの温度を下げている。「メスで切開」と聞いた途端、森技官の顔が幽鬼のごとく青ざめた。祐樹ならワザと乱雑に扱って苦痛を増す作戦を決行するとでも踏んでいたのだろう。確かに森技官と祐樹は「仲の良い喧嘩友達」だ。しかし、それは精神攻撃をお互いに行っているだけで、物理的なものではない。そのうえ、怪我をしている限り森技官も患者なので無駄な苦痛を与えるなど祐樹の医師としての倫理観が許さない。
最愛の人はそういう祐樹の性格を知悉しているがゆえに「メスで切開」と言い出したのだろう。森技官の目は泳ぎ、口元は引きつり、まるで手術台に載せられる直前の患者のような顔で祐樹に縋りついた。いや、こっちはこっちで困る。恋人のパーソナルスペースを最愛の人以外に浸食されるのは森技官であろうとなかろうと正直ウザい。
それに何より――ここは二人の愛の巣のマンションであって、メスも麻酔薬も常備しているわけがない。そんな当然のことすら吹っ飛んでいるあたり、森技官も相当なパニック状態なのだろう。普段ならこういう時にツッコミ役に回る呉先生も今日は沈黙している。なんと祐樹の背中にそっと隠れ、逃げ出した実験用のマウスのようにふるふると震えていた。この恋人たちは、揃いも揃って血が苦手なのだなと実感した。なんだかもう……呆れるのを通り越して感心すらしてしまう。一応医師免許を持つ二人が「切開」と聞いただけでこの有様なのだから。
「一応責任者なので手術……いや、この場合は麻酔とメスが必要なので救急救命室に行って杉田師長に頼めば、きっと何とかしてくれます」
あくまでも真剣に思索を巡らせているような表情だったが、呉先生に対して激怒した芝居の主演俳優を見事に演じきった彼のことだ。これもまた演技かもしれない。最愛の人が静かに、しかし容赦なく言葉を積み重ねていくにつれて、森技官の顔は曇りきっていった。青いというより薄い墨を流したような顔色になり、ついにはお奉行様の前で「お慈悲を……!」と手を合わせる町人のように祐樹に土下座でもしそうな勢いだった。ふるふると震えるマウスとお白州の上で土下座しているかのような罪人……その取り合わせは、ある意味「非常時」に相応しいかもしれないなと祐樹はもはや悟りの境地に到達した気分だ。
そもそも、この二人がどうやって医学部を無事に卒業出来たのだろうかという「哲学的」な疑問を抱いてしまう。
「いえ、この程度なら切開はしないで大丈夫でしょう」
祐樹の言葉が落ちると同時に、森技官の肩から見るからに力が抜けた。まるで土壇場で助命された武士のようだった。――それも、アルマーニがこよなく似合う、武士。
……は?だが、祐樹の心は、すでにサンスクリット語が聞こえてくるほど静まっていた。怒りも諦めも通り越したところにある境地――今、祐樹は仏陀だ、きっと爪一本ごときに動じるのは煩悩なのだ。だから今からの処置は、慈悲と無我で行こう。
「祐樹、アルコールは洗面所にあるだろう?」
最愛の人はアルコールの臭いのする鑷子、つまりピンセットや爪用のニッパーを手際よく並べている。
「貴方が助手を務めて下さるのですか?」
執刀医として独り立ちをするまで祐樹は彼の第一助手だった。今日は逆の立場になるのかと思うと悟りの境地はどこかへ消えていき、純粋な喜びだけが、ひたひたと胸を満たしていくようだった。まだ背中にくっついていた呉先生をそっと離し、洗面所へと向かった。
キッチンへと戻ると、森技官は切腹の覚悟が決まった武士のような潔い目をしていた。やっと腹を括ったのだろう。足を固定した祐樹に絶妙なタイミングで先の細いピンセットが差し出された。眼差しで感謝を返すと、最愛の人も薄紅の笑みを浮かべている。やはり「メスで切開」というのはブラフだったような気がする。
「はい、少し痛みますよ」
ピンセットで割れた爪を引き抜いた。
「少しじゃないです!だから医者の言うことはアテにならないんです!!」
いや、あんただって医者だろうと思いつつ、最愛の人が爪用ニッパーを差し出してくれた。下手な道具出しの看護師よりも的確で無駄のない動きで必要なものを手渡し、祐樹が想定していたよりもかなり早く処置は終わった。
「今日はシャワーだけにしてくださいね」
これは蛇足だったかなと思ったが、森技官は虎口を脱した安堵めいた深呼吸をし、おもむろに口を開いた。
「性行為はどうなのでしょう?」
は?と唖然としていたし、最愛の人も物言わぬ花のようだった。
「お前っ!!」
呉先生がと叫んでいた。照れたように、真っ赤なスミレのようだった。そして何故か森技官のスマホを手に持っている。

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