「気分は下剋上　ハロウィン　２０２５」９

　祐樹がホットコーヒーのＬを選んだのは川口看護師がアイスコーヒーのＬだったからで、我ながら子供っぽいなと苦笑してしまう。ついつい張り合ってしまった。それにしても最愛の人は川口看護師の見事な筋肉を褒めていることが心に棘とげのようにチクチク刺さっている。もしかして、筋骨隆々の人が本来のタイプなのだろうか？祐樹は「現代最強の呪術師」に選ばれたように筋肉量で負けているのは確実だ。
「実はですね」
　テーブル席に全員が座ったのを見て説得を開始することにした。心に刺さった小さな棘とげは、この際棚上げにしよう。
「先ほどまで小児科の浜田教授と内科の内田教授を加えた四人で飲み会をしていまして」
　川口看護師が驚いたように身動みじろぎすると、ギシリという感じで筋肉が動いた。
「そうなんですか？病院でも有名な教授ばかりですよね。ウチの瞬間湯沸かし器なんて、どの教授からも誘われないと噂になっています。もっとも、僕たちのような看護師から見たら雲の上の人ですけど……」
　最愛の人が慌てたような感じで薄紅色の唇を開いた。
「教授職よりも看護師のほうが人手不足です。教授職が部下の正しく育成していた場合、欠けても問題はないのが現状です。しかし、看護師に辞められると業務に確実に支障が出ます。私が、セクシャルハラスメント防止条項の明文化を教授会で通したのも、看護師の人達に気持ちよく働いてもらうためです。本当はパワーハラスメントについても真殿教授に釘を刺したかったのですが、逆ギレされてうやむやになってしまったのは不徳の致すところだと反省しています」
　祐樹の隣に座った彼が正面の川口看護師に深々と頭を下げている。
「いえ、そんな……。頭を上げてください。あの瞬間湯沸かし器は、都合が悪くなると逆ギレするのが得意技なんです。それに論点ずらしも上手らしいです！梶原先生がそうおっしゃっていました。あ、梶原先生というのは……」
　基本的に他科のことは知らない医師が多いことを川口看護師も知っているのだろう。梶原医師のことは呉先生から聞いている。真殿教授に反抗して左遷されるよりも家族を守るために大学病院に泣く泣く残った「精神科の良心」だ。
「梶原先生のことは知っています。それはともかく、今夜の話題は小児科主催のハロウィンの仮装を医師や看護師が務めるということでした」
　川口看護師は「それが何か？」と言いたげな表情だった。呼び出された理由にピンと来ていないのだろう。
「何年前かに田中先生がアニメのキャラに扮したのは知ってます。ウチは他科のことが全く伝わってこないんですが、女性の看護師がキャーキャー言っていました。ＬＩＮＥで回るみたいですね。男性の看護師と違って女性は他科の看護師と昼休みのお弁当などで仲良くなるみたいです」
　祐樹が主治医を務める患者さんの病室を回っている時間に、窓から見下ろす中庭で看護師たちが女子高の遠足みたいな感じで輪になって座り、お弁当を食べていた。祐樹は女子高に全く縁がないのであくまでイメージだが。
「あのアニメはご存知ですか？」
　最愛の人が柔らかい笑みを浮かべて川口看護師に聞いている。――なぜそんな笑みなのだろうともやっとした。
「はい。実はファンです」
　川口看護師は照れくさそうな笑みを浮かべていた。作品に対する好意なら全く問題ではないが、最愛の人と視線を合わせている今の状況へのリアクションなら大問題だ。
「それでしたら話が早いです。小児科の浜田教授は、今年のハロウィンも同じ作品にしようとお考えです。しかし全く同じというのは芸がないので高校生時代の『最強の二人』を軸にしようとおっしゃっていました。そのラスボス的存在のキャラがいましたよね？相応しいのは精神科の川口看護師だと私が・推薦しました」
　大人げないと自覚しつつ、最愛の人は関知していないという意味を込めて言い添えた。
「え？そうなんですか？光栄だし嬉しいですけど……、あの瞬間湯沸かし器の耳に万が一入ったら……」
　逡巡するのはもっともだろう。真殿教授に睨まれた看護師の立場は春の氷のようなものだろうから。
「その点も考慮しました。万が一にも露見した場合、小児科に引き抜くと浜田教授は言っていました。小児科の病棟は医師を除いて女性看護師が多いのです。男の子の患者さんが、貴方のような看護師に遊んでもらうのはいい影響を及ぼすだろうと乗り気のようでしたよ」
　春風に吹かれた花のような笑みを浮かべた最愛の人の言葉に、川口看護師の顔はさらに真剣さを増していた。
「そこまで考えてくださったのですか。でも、あの役も難しそうですよね」
　思慮にふける少年顔のダビデ像といった感じで、数秒の沈黙が流れた。
「私なんてもっと難しいですよ。この年で高校生の役なのです」
　祐樹が畳み掛けると川口看護師は笑みを浮かべた。
「ああ、なるほど。田中先生は続投なさるのですね。病院内であの役ができるのは田中先生しかいないと僕も思います。それでしたら、頑張って役を演じてみます。口元の傷跡とか、髪型はどうするんですか？首に巻いている格納呪霊、あれとそっくりなものを売っている店知ってるので、そこで買ってきます」

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