「『だめです』という言葉だけは、はっきりと聞こえた。それ以外はよく聞き取れなかったが、否定的な寝言だったことは確かだ」
その怜悧な声には、わずかながら案ずるような響きが混じっていた。それよりも、その程度の寝言で本当によかったと心の底から安堵した。
「――少し、手術が上手くいかない夢を見てしまいまして。あやうく術死というところで貴方の声が悪夢から救ってくださったのです」
最愛の人が疑うはずもない嘘を口にした。
「そうか。特に三日後の鈴木さんの手術は難易度が高いからな。祐樹が自覚しているかどうかは分からないが、心のどこかで心配していたのだろう」
祐樹は、ほんのり甘いミルクを飲み終え、マグカップをサイドテーブルに置いた。そして最愛の人の純白のシルクに包まれた肢体に身体を寄せた。同じシャンプーと同じボディソープの香りがふわりと漂う。そして確かな感触と温かみも、張り詰めていた心をゆっくりと溶かしてくれそうだった。
「そういえば、今日は珍しく、貴方のほうから誘ってくださいましたね。個人的には大変嬉しいのですが、何か理由でもあったのでしょうか?」
トロリとした感触のシルクに顔をうずめながら、祐樹はそう問いかけた。シルクの感触よりも最愛の人の確かな実在を感じると安心した。
「理由は祐樹の様子が何だか変だったからだ……。上手く言語化できないのが情けないのだけれども」
それは、川口看護師の見事な筋肉に目を留めていた最愛の人に、思わず嫉妬してしまったせいだったが、そのことを考えると悪夢にまで波及してしまうので気持ちを遮断した。こんなにも祐樹のことを考えてくれる最愛の人の確固たる存在を無視し、あんな夢を見てしまった自己嫌悪にさいなまれそうだ。
「祐樹、手術のことで不安になったら絶対に言ってほしい。他のことについては、祐樹にアドバイスもできない私だが、手技のことなら相談に乗ることは出来るので」
怜悧なその声が、空調の音しか聞こえない寝室に、そっと光を放っては溶けていくような気がした。
「ありがとうございます。そうしますね。貴方が作ってくださったホットミルクのせいで眠気が再び兆してきました。貴方も休んでくださいね」
起こしてしまったお詫びを兼ねて二度目のお休みのキスを交わした。
「田中先生、手術お疲れ様。ところで、また小児科のハロウィンに出演するそうじゃないか?小児科のナースが大騒ぎしていたぞ?しかも、高校生、いやあの作品だと高専生か……。若作りだな」
手術を終えて医局に戻った祐樹は柏木先生に話しかけられた。
「若作り……それは言わないでくださいよ。この年になって制服姿になるのは恥ずかしいのです」
周囲から好意的な笑みが漏れている。
「俺なんて前の役で出てほしいと言われたら頭を抱えるだろうな。その点田中先生はギリ行けるんだから羨ましい」
柏木先生には、かつて「脱サラ呪術師」役を務めた過去がある。
「高校生でその出っ張ったお腹はないでしょう?」
目立つほどではないが若干出ているのは事実だ。祐樹の指摘にお腹を情けなさそうに見下ろしている柏木先生の様子に笑いの輪が広がった。
「――やっぱりダイエットしないといけないな。ダイエットといえば、久米先生が『参加したい!!』と駄々をこねていたぞ?」
久米先生は最愛の人の手術の第一助手を務めている。手技の速さも誇っている最愛の人よりも祐樹の手術が早く終わったのは、内容が比較的簡単だったからだろう。
「残念ながら主要なキャストは既に決まっていて、脇役なら何とかなるのではないでしょうか?段ボールみたいなものをかぶった呪詛師がいましたよね」
柏木先生は大声で笑った。
「そんな役を振ったら、『いつもいつも顔の見えない役ばっかりじゃないですか!?』とキレるだろうな。今年はスルーしておくのが一番だと思うぞ?」
そういえば久米先生は、アニメの主人公に「頭、富士山」と言われていた呪霊役として出ていたなと思い出した。
「それはそうと教授の執刀はあとどれくらいかかりそうなのですか?」
最愛の人とは呉先生の不定愁訴外来で待ち合わせている。
呉先生に「悪夢を見てしまった」ということを相談したい。しかし、最愛の人には絶対に告げたくない内容なだけに、先に不定愁訴外来に行って話したいと思った。
「冠動脈の閉塞部位からしてまだかかるだろうな。香川…教授が名医でもあの状態は仕方ないと思うぞ」
柏木先生の冷静な指摘に祐樹も頷いた。
「先に昼食を摂ってから病棟巡りをしてもいいですか?」
柏木医局長の許可を得てから、デスクの奥に隠してあったタバコとライターをポケットに入れ、医局を出た。最愛の人との関係が深まる前にはよく吸っていたタバコだったが、今は救急救命室で救えなかった命があったときくらいしか吸わない。呉先生も診察中かもしれないので、その場合は病院から抜けだし、救急救命室勤務のときに行く隠れ場所に行ってタバコを吸って待とうと思った。
あの悪夢はタバコを吸わないとやりきれないほど重かった。新館を抜けて旧館エリアへと入っていった。呉先生が患者さんの診察をしていないことを祈るばかりだった。
―――――
もしお時間許せば、下のバナーを二つ、ぽちっとしていただけたら嬉しいです。
そのひと手間が、思っている以上に大きな力になります。
にほんブログ村
小説(BL)ランキング
PR ここから下は広告です
私が実際に使ってよかったものをピックアップしています

コメント