最愛の人が夜の星よりも煌めき、宝石よりも艶やかな声を零したのはピーチフィズを零した胸の尖りをそっと摘まんだせいだった。
「安心ですか……。それは二人の初めての夜からですか?」
拍動がいつもより早いのは祐樹が驚かせたせいだろう。愛の交歓の時に上昇するのは、ごくごく自然な現象なので許容範囲内だろうが、祐樹が(転落するかも)と思わせたのは事実なので愛の会話を続け、愛撫はゆっくりと進めようと思った。それに他人、しかも初対面のナツキに彼自身が過去話をしたということは、彼の心の中でも「祐樹との初めての夜」は生々しい記憶でのままではなく、すでに懐かしい追憶という名のフォルダへと、完全に移し替えられた証拠ではないだろうか。だったら祐樹からその話を振ってもいいだろうと判断した。
「初めての夜か……」
その声音は、まるでセピア色の薔薇のようだった。時を経てもなお、色褪せることのない記憶を、そのまま咲かせているかのように。
「『グレイス』でも言ったけれども、祐樹にどこか似ている日系人に誘われ、一夜を共にした。その行為の最中も『こんなものか』と冷静に分析していたし、感情は全く乱れなかった。ただ淡々と行為を終えた。しかし、祐樹にリッツカールトンに誘われた夜は、嬉しい気持ちや本当だろうか?夢を見ているのではないだろうかなど、あらゆる感情がわき起こってきてパニック状態だったな、大阪に向かうタクシーの車内では」
タクシーの中で彼は何だか自暴自棄のような表情だったと記憶している。それほど色々な感情が彼の心の中に混在しているようには見えなかった。
「――ホテルの客室では……やっと、宿願が果たされたという想いでいっぱいだったな……ただ、経験豊富なほうが祐樹にとって重くないだろうと、必死で演技していた、な」
最愛の人の頬を両手で包み込んだ。滑らかな皮膚と体温が、祐樹への愛情を伝えてくるような錯覚を抱いてしまう。人差し指だけで優しく叩いた。
「確かにあの頃の私は経験のなさを重いと感じたかもしれません。しかし、貴方の『慣れた』感じで、杉田弁護士に相談したのも事実なのですよ」
最愛の人は、祐樹に身体に預けていた肢体を少し動かして祐樹の唇に唇を重ねた。唇が重なる一瞬、祐樹は言葉にしない謝罪の気配を感じ取った。それは「悪かった」と告げるような、そっと下りてきたキスだった。彼が愛用している柑橘系のコロンの香りが濃くなったような気がした。最愛の人の感触を五感全てで感じたくて唇を舌でノックすると、まるで咲く時を待ち侘びていた花のように、彼の唇がふわりと綻んだ。
ピーチフィズの甘さの残る口腔内を舌で探る。そのまま愛の交歓へと進めてもいいかとも思ったが、今夜の彼の紡ぐ言葉が聞きたかった。二人の唇のあいだに、蛍火のように儚い光が橋をかけ、そしてすぐに溶けて消えた。
「――安心というと、そうだな……。翌朝京都に帰った時に祐樹が朝食を一緒にと言ってくれただろう?あの時『一晩きりではない』となぜか思えて、心の底から安堵した……」
そういえばそういうこともあったなと、祐樹の中に、珈琲色の追憶がぽつりと降り立った。
「あの時は、列車内でそっと手を重ねて下さらなければ、私はきっと、貴方のことを『一夜限りの相手に慣れた人』だと誤ったまま捉えていたでしょう。『これはただの通り雨』だと、自分に言い聞かせて終わらせていたと思います」
最愛の人は、まるで夕日に透けた白椿のように、静かに微笑んだ。
「あれは、私にとって清水の舞台どころではなかった。……そう、東京タワーから飛び降りるような決意だった。着地など想像もできなかったな。しかし、祐樹が朝食に誘ってくれて――ああ、この『幸せな夢』はもしかするとしばらく続くのかもしれないと、とても安心した。――そして、しばらくどころか生涯続くと確信した時には……もっと安堵したな……」
最愛の人はふと微笑んだ。しっとりと雨に濡れながらなおも気高く咲くカサブランカのような笑みだった、あの夜から始まった関係が、今も変わらず、これからも続いていくことを確信している。その信頼に応えたいと、祐樹はそっと最愛の人の手を取った。透き通るような白い甲に、まるで永遠を誓うように、うやうやしく口づける。その唇から、想いがそっと伝わることを祈りながら。
「祐樹……、そろそろ言葉だけではなく、身体の全てで、祐樹の愛を感じさせて欲しい、な」
その笑みは、白百合の潔さではなく、薄紅に染まる艶やかな百合のように、どこか甘やかで、祐樹を誘ってやまない魅惑をふんだんに湛えていた。

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