「祐樹が帰ってくる時間には勝手に目が覚める」と言っていた最愛の人を起こさないように細心の注意を払っていたが、ベッドルームに入ると最愛の人が半身を起こしていた。
「祐樹お帰り」
今まで熟睡していたらしいのに、冴え冴えとした眼差しと仄かな笑みは、照明を絞った寝室でも分かった。
「祐樹、顔色が悪い。体調不良か?それとも悩み事……?私が力になれることだろうか?」
案じてくれるのは大変ありがたいが、実際は、森技官から爆弾のように渡された二十億円もの科研費の書類だ。ちなみに祐樹は基本的には通勤にカバンを持っていないので、厚労省と書かれた封筒は、うがいと手洗いをする前に、最愛の人が入って来ない祐樹の個室に隠した。
「いえ、顔色が悪く見えるのは、今夜の救急救命室が第二次世界大戦末期の日本軍の野戦病院のようだったからだと思います。流石に疲れました。悩み事はないですね」
そういう状態なのは確かだったけれども、まさか森技官のためにでっち上げた論文が今になって問題になっているとは言えない。念のために©KyotoUniversityではなく©KagawaUniversityと遠藤先生が書いてくれてはいるが、真面目な彼を巻き込むのも祐樹にとっては不本意だった。
「そうか。そんなときには、温かい牛乳に少しだけ砂糖を入れたものを飲むとぐっすり眠れるだろう。それともすぐにベッドに入るか?」
このわずかな光だけでなく、キッチンの照明で最愛の人の顔を見たいとは思ったが、彼に不審感を抱かれるリスクを考えると、涙を呑んで諦めるしかない。
「お気持ちは有難いのですが、明日、いやすでに今日ですね。執刀医としての手術も入っているので休みます」
真っすぐに祐樹を見つめている最愛の人から目を逸らしたいという本能的な防御策に我ながらよく耐えた。多分最愛の人は何も気づいていないだろう。ベッドに入って「おやすみのキス」を交わした後に眠ったふりをした。二十億円の重みがひしひしと肩にのしかかってくるせいで、普段は「墜落睡眠」と最愛の人が感心する眠りも、なかなか訪れない。
執刀を無事に終えて医局に帰ると、胃がキリキリと痛んでいた。もしかして胃潰瘍かと疑ってしまう。祐樹は激務かつ救急救命室でノロやインフルエンザの患者さんも診ているが幸いにも罹ったこともなく、風邪すらひいたことがない。しかし、胃潰瘍で吐血して搬送された患者さんが「死ぬほど痛い」とのたうち回っていた光景を思い出した。「死んだほうがましなので介錯を!」などと時代劇に見すぎなのかそんなことも口走っていたからには相当痛いのだろう。
午前の手術は無事に済んだが明後日にも手術予定は入っている。そのときに執刀医が吐血などということになれば患者さんを筆頭に手術スタッフ全てに迷惑がかかると思いつつ胃痛をこらえていた。それに執刀医は祐樹でオペ中に吐血したら田中家末代までの恥。いや祐樹の家は根っからの庶民なので田中家はどうでもいい。それよりも、香川外科所属なので最終的には最愛の人の迷惑になる。それだけは絶対に防がないとならないなと思っていると遠藤先生が近づいてきた。
「エイプリルフール用の論文なのですが」
周囲を見回して小さな声で祐樹に話しかけてきた。
「エイプリールフールですか!?それなら火星人が攻めてきたとかはどうでしょう?」
周りに人がいないと思っていたのに、久米先生はデスクの下に落とした何かを探していたのだろう。体型的に四苦八苦といった感じで出てきて口を挟んでくる。まさかそんな場所に久米先生がいるとは思っていなかった。
「そんなことをサイトで拡散したらどうするんです!」
遠藤先生が真っ青な顔をしている。
「タカ派で有名なアメリカ大統領が本気で怒ったらどうするのです!?」
眉根を寄せた祐樹が真剣な表情で指摘すると久米先生はマズいと思ったのか、「あ!病棟巡りに行かなければならなかったんです!」と言ってそそくさと医局を出ていった。
「その論文が胃痛の原因なのだよ!」と思うけれども絶対に言えない。
「あの論文をウチの大学のサイトに載せたら、東大の連中にギャフンと言わせられますよね?あいつらときたら海外の学会にも数人で連れだって来て、東大同士で話し込み、講演なんて聞いていません!向学心よりも海外旅行気分なのが腹立たしいです。エイプリルフールの論文――あんな洒落た真似は官僚養成大学の東大なんかでは出来ないでしょう」
勝ち誇った笑みの遠藤先生を見ていると胃がキリキリと痛んだ。
「そうですね。ご協力ありがとうございます。あ!柏木先生、少し外出してもいいですか?」
この胃の痛みを緩和するには、市販の胃薬に頼るしかない。ウチの病院の近くには処方箋専門の薬局があるが、診断を受けない限り処方箋は発行されない。
「仕事さえきちんとしてくれるなら少しくらいの外出は許すが」
柏木先生の許可を得て医局を出、ワイシャツとスラックス姿で薬局を探した。その店舗では胃薬もずらりと並んでいてどれがいいのかさっぱり分からない。しかもその上値段が高い。こんなに高価なのかと思いながら「ストレスを感じているあなたに」などとどれにも書いてある。
「お客様、どのようなお薬をお探しでしょうか?」
振り返ると「薬剤師」とネームプレートに貼った店員さんが話しかけてきた。
「胃潰瘍に効く薬です」
思わず本音がポロっと口から出てしまった。薬剤師さんは首を傾げながらしげしげと祐樹を見ている。
「お客様、それは……病院に行って医師の診断を受けてからのほうがよろしいかと存じます」
今まで病院にいた!そしてオレは医師。心の叫びも、胃の痛さのせいで、一人称が学生時代に戻ってしまっていた。――なんだこの状況。胃が痛いのに、気持ちの混乱でもう一段階悪化している気がする。
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こうやま みか拝
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