「気分は下剋上 BD・SP」おまけ後編・下

短編
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This entry is part 7 of 12 in the series 下剋上SP

「ゆ…田中先生、呼び立ててしまって済まない。アッシュベリー先生から『田中先生と一緒に味わってください』というカードと共にこれが届いた」
 執務室に入ると、最愛の人の笑顔が心を、そして、ミントグリーンのワイシャツと緑色と白のストライプのネクタイが祐樹の胃を癒してくれるかのようだった。祐樹呼びではなく、田中先生と彼が口にしたのは秘書がいるからだ。
 それはともかく彼を見たら、心なしか胃の痛みはかなり緩和された気がする。
「そうなのですか?中身はいったい何です」
 胃を荒らすようなものでなければいいと内心身構えながら聞いた。
「紅茶とスコーンが入っていた。紅茶はいつものようにストレートで飲むか?」
 最愛の人は純白の白衣を天使の羽根のように翻して応接セットに座った。刺激物は胃に悪いということは知っているが消化器内科医ではないので、詳しくは知らない。こんなことなら、新館一階の隅っこに設置された「栄養士・相談コーナー」に寄り、栄養士さんに具体的に何を摂ったらいけないのか聞いておけばよかった。顔が引きつりそうなのを必死に我慢した。
「――アッシュベリー先生がわざわざ送ってくださったということはさぞかしいい茶葉なのですよね?イギリスからですよね?」
 最愛の人が笑みを浮かべて頷いている。アッシュベリー先生は、患者さんからお呼びがかかると、EUやアメリカ、そしてインドまで行くと聞いている。インドの患者さんはもちろんマハラジャクラスで、言い値をキャッシュで支払ってくれると聞いている。
「この紅茶はどうやって飲むのが最もいいのでしょうか?」
 最愛の人が目の前に置いてくれた紅茶の缶はフォートナム&メイソンのように見慣れたブランドではなかったが、いかにも高級そうな感じだった。
「イギリスふうに牛乳を入れて飲むのがいいらしい」
 牛乳が胃に優しい程度は知っている。
「いいですね。たっぷりの牛乳を入れた紅茶が美味しいのはイギリスで経験しました。紅茶半分、半分牛乳でお願いします」
 本当は国際公開手術でかの国に行ったときに、紅茶というよりアメリカンコーヒーなのではと思うほど濃い紅茶にミルクを入れたものしか飲んでいないが、最愛の人とは合流前だったので知らないだろう。彼が秘書に目配せすると、秘書はパソコン作業を中断して立ち上がった。
「あのう、一般論なのですが、国産のものを使って画期的な薬が出来ると、こ――文科省は科研費を惜しまないのでしょうか?」
 厚労省と言いかけて慌てて言い直した。最愛の人は一瞬だけ不審そうな表情を浮かべたが薄紅色の唇を花のように開いた。
「その新薬候補が市場のニーズに合うかどうかだな。たとえば風邪の特効薬が出来たとしよう。風邪はほとんどの人が引くだろう?逆に肺動脈性高血圧症は深刻だけれども患者数が圧倒的に少ないので開発コストとニーズが釣り合わない」
 彼が挙げた肺動脈性高血圧症は十万人に数人しか発症しない。森技官がうっかり信じ込んでしまった「バイアグラに勝る自然じねんじょは、勃起不全に効果的だ」という論文もどきに祐樹が書いた気がする。そして、男性からの需要は圧倒的に多そうだ。
「――そして、国産の原料ということだが、それが日本にしかない場合、経済効果も大きい。どんな原料なのかは知らないが例えば蜘蛛の糸からしか取れない場合、その蜘蛛を育てる人が多数必要となるだろう?それが雇用の促進につながる。限られた地域にしか棲息しない蜘蛛だったら、地域の活性化にも貢献する。また、円安が幸いして外国にも輸出しやすいだろう。つまり、莫大な経済効果をもたらすということだ。市場のニーズに合った薬という前提はつくけれども、文科省の官僚が『国益のため』と判断した場合、莫大な科研費が出るだろうな」
 聞いていて空恐ろしくなったし、胃の痛みも再燃した。怜悧で穏やかな声が今の祐樹には逆に怖い。
「エビデンスに重大な瑕疵があった場合はどうなりますか?」
 それしか打開策がないような気がした。
「どの段階かにもよるが、その場合は速やかに申し出て自主的に返還するのがセオリーだ。マスコミにも大々的に報じられているようなケースではエビデンスの論文執筆者やその周囲にバッシングが起こるだろうけれども」
 背中を冷たい汗が伝い落ちた。
「それでしたら、重大な瑕疵がある場合は速やかに申し出たほうがよいのですよね」
 秘書が運んでくれた紅茶を恐る恐る口にした。
「そうだな……。しかし、ゆ…田中先生は私同様に論文ではなく手技で勝負する臨床医だろう?どうしてそんなことを聞くのだ?」
 ウエッジウッドのティーカップを優雅な手つきで傾けている。
「いえ、それが、知り合いに『絶対にここだけの話』と念を押されたので、教授に申し上げてしまうと、下手をすれば累が及びます。全く知らないほうがいいと思います」
 二十億円の重みは、祐樹一人で背負おう。最愛の人にまで波及したら大問題になりかねない。
「そうか。研究員の場合守秘義務契約を結んでいることが多いからな」
 もうさっさと遠藤先生がそれらしく作ってくれたデータのどこかに重大な瑕疵があったことにして、森技官に言うしかないだろう。
「あ、患者さん、浅沼さんなのですが、相談に乗ってほしいと言われていたのです。その約束の時間が迫っていて。美味しい紅茶ごちそうさまでした。アッシュベリー先生にも大変美味しかったとお伝えください」
 最愛の人とのティータイムは楽しいが、嫌なことは先に済ませるのに限る。そそくさと立ち上がって執務室を出た。無性にタバコが吸いたくなったが、今は医局に行くほうが優先順位も高い。
「もしもし、田中です。今お時間よろしいですか?」
 キリキリ痛む胃を押さえながら森技官に電話した。医局ではなくて旧館に来ている。ここだと誰にも聞かれないことは分かっていた。
『はい?自然薯の研究はどうなりましたか?』
 スマホ越しに「自然薯?」という声が聞こえている。政局の混乱に乗じて法案を作成するという官僚にとっての修羅場に自然薯は全く相応しくない牧歌的な話題だ。
「――それが精査したところ、四ページ目のグラフに重大な瑕疵がありました。どうも入力する数字の桁を二つも間違えていたようなのです。つまりエビデンスに欠けるということでして……残念ながら今回の森技官のご厚意に応えられそうにないのです。例の書類は郵送で送り返しますね」
 遠藤先生と相談して最もいいと言われたことを一気に言い切った。
『――え?そうなのですか。しかし、エビデンスは私自身です。足りないとのことなら、毎年自然薯掘りに行きましょう』
 こういう自信満々なのが森技官だよなと思いつつ、自然薯掘りは最愛の人も楽しんでいたようだし、毎年付き合うだけで二十億円の重みから解放されるなら安いものだと思った。
「分かりました。お付き合いします。ご多忙中にお騒がせして申し訳ありませんでした。では」
 電話を切ったら胃の痛みが嘘のように消えていた。どうやら胃潰瘍ではなく、ストレス性の胃痛だったようだ。――来年は森技官が張り切って何本掘るのだろうと思ったとき、ふと重要なことに気がついた。エビデンスは森技官自身だとか言っていたが、それだと一人分にしかならず、論文としては不完全なままだということになる。まあ、祐樹が書きなぐった論文なので、実害はないだけまだましだろう。
 自然薯を花束のように持っていた最愛の人を思い出して心を鎮めた。

 <完>

―――――

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