「神戸の六甲山にドライブに行ったときもイノシシを見ましたよね。うり坊は小さくて可愛かったですが、成体は……」
最愛の人も描いたように綺麗な眉を寄せている。祐樹の言いたいことを即座に推察したのだろう。祐樹と同じ、いやそれ以上の頭脳を持つ人と付き合うと、余計なストレスがなく気持ちも快適だ。
「神戸の高校生が通学途中に襲われた事件があったな。特に今の時期は食べ物の少なくなる冬に備えて食欲も増すらしいので、食べ残した食事があったら……」
重箱を見て小さな花のような笑みを浮かべた。彼の作ってくれたお弁当が美味しすぎて、重箱はほぼ空になっている。
「自動車は窓を閉めれば密閉空間になるのだろうか?」
知識の宮殿のような最愛の人でも自動車の仕組みは疎いようで何だか安心した。
「外気を取り込むシステムです。ですから、この重箱の中に残った食べ物の匂いは微量ですが漏れるでしょう。イノシシの嗅覚は犬と同レベルですから」
最愛の人の憂い顔に見惚れてしまう。
「密封するためにクーラーボックスを買って持ってくるべきだったな……」
彼の頭を慰めるために軽く撫でた。若干細い髪がひんやりとしていて心地いい。彼も目を閉じて安堵したような安らかな表情を浮かべている。
「そこまでなさらなくても、トランクに入れればイノシシのリスクはかなり軽減されますので大丈夫です。今後山に入るときには気をつけるだけで充分です」
最愛の人は薄紅色の安堵の笑みを浮かべている。
「気候がおかしくなったせいで、生態系も崩れているだろう?北海道では熊が市街地に出没したり、痛ましい事件も起こったりしている。この辺りに熊は出ないだろうが、イノシシや猿などは危険だな。神戸の高校生が搬送されたのは神戸大学附属病院だと記憶している。詳しいカルテなどを今後のために取り寄せようか?」
救急救命室に、イノシシに襲われた患者さんが搬送される可能性を考えているのだろう。先ほど、どんぐりを見て無邪気に笑っていた人が今度は深刻な表情に変わっている。どちらもとても魅力的だ。
「大学時代に北海道出身の同級生がいました。卒業後は僻地医療のために北海道の寒村に帰ってしまいましたが。彼の話だと『熊を見たら死んだと思え』と土地では言われているらしいです。医師としても助けられないレベルだと思いますが、イノシシなら何とか対応できるでしょう。神戸大学の件よろしくお願いします」
どこの旧国立大学でもヒエラルキー社会らしい。つまり、教授職が要請するのと、一介の医局員が頼むのとでは雲泥の差がある。早く知りたい場合は彼の力を借りるか、または救急救命室の北教授に頼むしかない。ただ、北教授は動物よりも地震などの災害時のスペシャリストなので、地球上のどこかで災害が起こると現地に飛んでいる。現実的な対応としては最愛の人経由が最も早い。
「では、トランクに入れましょうか。着いた早々にお弁当を食べて正解でしたね。ある程度山の中に入って栗を拾ってからだと車に戻らないとならないので時間のロスですよね。ああ、あそこに大きなどんぐりが落ちていますよ」
祐樹が拾って渡すと、最愛の人は宝石を手渡されたような手つきと極上の笑みの花を咲かせてくれた。彼も優秀な外科医の例に漏れず気持ちの切り替えは早い。イノシシの獣害の件はいったん忘れてデートを楽しもうと思ったに違いない。
「これも私の宝物だな……。また宝箱に入れる物が増えて嬉しい」
細く長い白い指でどんぐりを持ち、太陽にかざしている姿は、何だか宗教画のように神々しい美しさだった。
「まさにツヤツヤのどんぐりですね。今回の目的の栗もイガのついた状態だとオブジェになりそうですし、いい感じに開いた松ぼっくりも記念になりそうです」
重箱を、座っていたシートで念のために包み、トランクに入れた。
「松ぼっくりはリッツカールトン大阪のクリスマスツリーにも飾ってあったな。白や赤のリボンをかけてあったと記憶している。クリスマスツリーだとそういう装飾は必要だろうが、祐樹とのデートの記念だったらそのままのほうがいいような気がする」
並んで歩きながら最愛の人は楽しそうに話している。それだけで祐樹も充分幸せだった。来る前はあわよくば松茸を採ってみたいと思っていたが、そんな邪念めいた気持ちも山の空気と木々の香り、そして最愛の人の存在で浄化されるようだった。
「こんにちは」
山に入れば知らない人にも挨拶をするのが不文律なので声をかけた。どうやら地元の人らしい。
「はい、こんにちは。もしかして、香川教授と田中先生かな?」
年配の男性に名前を呼ばれ、一瞬警戒した。何しろ二人の真の関係は、公にできない類のものだ。ただ、例の地震のときにNHKのニュースなどのテレビ番組に二人して出た。そのためこちらが知らなくても相手が一方的に知っているということが増えたので、そちらだと思いたい。
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