「気分は下剋上 知らぬふりの距離」66

「気分は下剋上 知らぬふりの距離」
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This entry is part 93 of 100 in the series 知らぬふりの距離

 兵頭さんは、精神科の閉鎖病棟よりもよく考えられているというこの病室のベッドの上に、再び「虚無のお地蔵さん」のように座っていた。祐樹は、普通の病室ではシーツは取り外し可能な仕組みになっているのに、ここではベッドマット――詳しい名称は分からないが――と一体化していることに気付いた。最愛の人の発案だろうが手間はかかるが人命を優先したに違いない。ネクタイやシーツなどの布地を使って自死を企てる患者さんがいると、以前呉先生に聞いていた。そういうリスクも想定内に違いない。
「香川教授のご厚意は大変ありがたいのですが……真殿教授に伝えるのだけは止めてください。何故なら『君たちはどこの科所属なんだね?精神科だろう。他科に行きたいのかね』などと延々ネチネチ言われるのがオチだからです。ですから真殿教授には内緒でお願いしたいんです。下手をすれば『内政不干渉という病院内の慣習を破った』と難癖をつけて怒鳴られるかもしれません。あの教授の瞬間湯沸かし器はどこにスイッチがあるか分からないのです。医師たちも戦々恐々としていますが、我々はもっと恐れています。内政不干渉といっても、この患者さんが暴れているところに偶然居合わせて、我々にできることをし、香川教授がお礼をおっしゃってくださったので何の問題もないと思うのですが、真殿教授はそう受け取らない可能性のほうが高いんです」
 川口看護師の言葉に、西看護師も「まったくその通りだ!」といった感じの表情だった。最愛の人は珍しく逡巡しているような表情を浮かべていた。
「広瀬さん、通常業務に戻ってください。こちらは私と田中先生、そして精神科の川口看護師と西看護師で対応します。ただし、兵頭さんに関しては厳重に注意を払うようにと私が言っていたとナースステーションに通達してください」
 広瀬看護師は神妙そうな顔で頷いたあと、開かずの部屋を後にした。
「――ここだけの話として、極秘にしていただきたいのですが」
 最愛の人がこれほどまどろっこしい言い方をするのは珍しい。皺一つない白衣の下に着用したスーツの内ポケットから、財布を取り出している。
「これで焼肉でも召し上がってください」
 彼らは「とんでもない」と言いたげに、先ほどとは異なった感じで首を横に振っている。
「いえ、これは正当な報酬です。プロを動かしたら対価が発生するのは当然です。しかし、責任者が容認しないのであれば、こうして私的に手渡すしかありません」
 広瀬看護師をナースステーションに戻したのはこうしてお金を手渡すのを見せたくなかったのだろう。祐樹は最愛の人のことを他人に話すべきことと黙っておくべきことはわきまえているし、彼もそのことを知っているので残したのだろう。それに、筋骨隆々とした彼らには焼肉がよく似合うような気がした。最愛の人の優しい笑みに川口看護師はおずおずといった感じで二枚の一万円札を受け取って、「ありがとうございます!」精神科のメンズナースは体育会系出身者が多いことを祐樹も知っていたが、大きな声でお礼の言葉を述べていた。
「ここだけの話の続きですが……今から駆け付けてくる呉先生、彼なら上司に相応しいと思いますか?」
 精神科の内情を知る絶好のチャンスだと思い、祐樹はそう問いかけた。すると二人は焼肉代をもらったときよりもさらに表情が明るくなった。
「あの先生も怒りの沸点が低いんですが、何故怒っているかということはちゃんと説明するんですよね。我々の仕事では『患者さんに背中を見せない』というのが当たり前なんですが、うっかりそれをしてしまって怪我を負った看護師に、手当が済んだのちにお小言を頂戴するんです。それは我々のミスなので叱られても仕方ないんです」
 最愛の人は細く綺麗な顎に指を当てて考えている。
「つまり、叱責されても当然の場面では呉先生は怒り、理由の分からない場面では真殿教授は怒鳴る、というわけですか」
 彼らは「その通り」といった感じで頷いている。
「ですから、これもここだけの話になりますが、……真殿教授なんかよりも呉先生のほうが良い上司になると思います」
 看護師は医師の話を聞いていないふりをしながらも、断片的に耳に入れている。
「そうですか。教えてくださってありがとうございます。これも絶対に秘密でお願いしたのですが……呉『教授』待望論のような話を、精神科の医局の中でこっそり口にする医師はいますか?」
 彼らは顔を見合わせていた。
「聞いたことはないですね。ただ、うちの医局は真殿教授に密告する医師がいるんです。ナチス・ドイツのヒトラー独裁政権時代みたいだと、梶原先生が言っていました。僕らは歴史なんてさっぱり忘れてしまいましたが、何でも隣人が密告して捕まった人がいたみたいですね。そういう怖い雰囲気なので、先生たちもめったなことを口にしません。いえ、出せないんです。だから僕らには伝わってこないんです」
 最愛の人は、決然とした光を切れ長の目に宿し静謐な感じで頷いた。

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