その音は栗のイガが落ちるような軽さのあるものではなかった。明らかに動物が立てた音だと祐樹は判断した。そして、脳裏に浮かんだのは「イノシシか熊か」という分かり切った二択だった。最愛の人は、彼が作ってくれた最高に美味しいお弁当を食べ終わったのちの雑談で、神戸の高校生の救命記録を取り寄せてくれると言っていたが、今必要なのは医師の書いたカルテではない。遭遇して無事だった人の体験――いわば「生き延びた声」だ。北海道出身の元同級生の言葉もフラッシュバックした。「熊に遭ったら命は諦めろ」と言われた言葉だ。また、顔面から食われたケースも多々あるというレポートも読んだ。
そんな想念が頭をよぎると、祐樹は本能的に身を低くし、最悪に備えていた。最愛の人をチラッと見ると、焚き火のそばに座ったままで、しかも楽しそうに火を見つめている。彼は町育ちなので山のリスクに対して鈍感なのかもしれない。実際に北海道のどこかで熊に襲われて亡くなった観光客のニュースが流れたとき「地元の人間はこの季節に決して近寄らない場所です」という注意喚起ともとれるアナウンサーの言葉が添えられていた。例年の異常気象で山の植物が枯れたり実らなかったりしているらしいので熊も住宅地にまで餌を求めて下りてくるというニュースも見た。
「もしこれが本当に熊だったら――」考えは直ちに行動に転じるに限る。焚き火で時間を稼ぐ、音を立てて威嚇する、熊を誘導して距離を取らせる。一秒でも長く時間を稼げば、最愛の人を逃がせる。銃を持ってくればよかったという一瞬の衝動が湧くが、銃は現実的ではない。祐樹にできるのは、今ここにある物で熊かイノシシの注意を引き、その隙に最愛の人を遠ざけて、彼だけでも無事に逃がすこと。ここで冷静さを欠けば、二人とも終わる――だからこそ、祐樹は自分を鼓舞した。
最愛の人に目配せして、何とか「早く逃げて、そして生きてほしい」と伝えようとした。しかし、何故かその音のする方角を見て、笑みを浮かべている。
「せんせたち、栗は拾えはったか?」
シゲさんののんびりとした声と共に、先ほどとは違う服装で姿を現した。
「はい。たくさん拾えました。今まで焼いていたのです。これから食べようとしていました」
祐樹は先ほどの緊張が一気に解けて危うく地面にしりもちをつきそうになったが、必死で我慢した。
「ほんならワシが切ったるわ。ナタ使たらすぐやさかい」
シゲさんはまだ熱い栗を事もなげに集めて、先ほどよりは清潔そうなタオルに入れている。山守りという職業の詳細は祐樹も知らないが、手を酷使するのは間違いないだろう。きっと手の皮膚が厚くなって熱を感じないに違いない。
「お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」
最愛の人は祐樹を心配そうにチラッと見たのち、シゲさんに頭を下げている。走馬灯のように目まぐるしく回った頭脳とそれに伴って分泌されたアドレナリンのどちらかに彼は気づいたに違いない。「皮むきをする」「切る」と言っていたときの彼とは明らかに表情が異なっている。栗を半分に切りたいという気持ちよりも、祐樹のことを優先してくれたのだろう。
「ほな、ちぃと待っときなはれ」
シゲさんはタオルに焼いた栗を包んで早足で歩み去った。
「シゲさんだったのですね。私はてっきりイノシシか熊が来たのだと思い、対応策を必死で練っていました。救急救命室での修羅場には慣れていますが、最愛の貴方や自分の命が危ないと分かったときの恐怖は、尋常ではありませんでした。身を挺して貴方をかばって、最悪私は命を落とすかもしれないとまで思っていたのです」
最愛の人は呆気にとられたような表情を浮かべている。
「――私をかばってくれる祐樹の愛情はとても嬉しいが、私としては、二人で死力を尽くして戦いたいと思う。どちらが死ぬのではなく、二人とも落命するか、助かるかの二択を希望するな。しかし、どうして祐樹がイノシシや熊だと判断したのかが分からない。ガサっという音で祐樹は反応していただろう?」
彼がそこまで祐樹を見ていたとは知らなかった。いや、最愛の人の命を優先するあまり、目先の脅威で頭が一杯だった。その脅威がシゲさんだったとは今考えると失笑ものだ。
「逆に貴方は何故シゲさんだと分かったのですか?」
焚き火に乾いた枝を放り込んだ。
「え?身長だが。イノシシは体長160cmくらいで、本州に棲息するツキノワグマは最大180cmだと記憶している」
怜悧で落ち着いた声に祐樹の気持ちも凪いでいく。
「シゲさんも160cmくらいですよね?」
祐樹が指摘すると最愛の人は心の底から可笑しそうな笑い声を立てていた。
「祐樹……それはドラマや映画などのフィクションに毒されていないか?人間は二足歩行だが、イノシシや熊は四足歩行だ。体長こそ同じくらいだが、イノシシは歩行時だいたい80cm、ちなみにツキノワグマは90cmほどで、1mを超えることはない」
最愛の人の説明を聞いて己の不明を恥じた。
―――――
もしお時間許せば、下のバナーを二つ、ぽちっとしていただけたら嬉しいです。
そのひと手間が、思っている以上に大きな力になります。
にほんブログ村
小説(BL)ランキング
PR ここから下は広告です
私が実際に使ってよかったものをピックアップしています


コメント