「彼は美山総合医療センターにいます。名前は山敏弘です。マウンテンの山に、「とし」は、敏感の敏、「ひろ」は弓偏にカタカナのムのような字です。しかし、それが何か?」
黒木准教授は不思議そうに。太い首を傾げた。
「まだ計画中なのでお話しできません。もしかしたら、黒木准教授がお喜びになる結果になるかも、としか、今の段階では申し上げられません」
祐樹がキッパリと言うと黒木准教授は納得したように頷いた。
「こんな魑魅魍魎が跋扈すると言われている大学病院ですからね。田中先生の用心深さは必要でしょう。ところで、田中先生はプライベートで教授とお親しいのですよね?そのときには、田中先生の下の名前で教授は呼んでいらっしゃるのですか?」
黒木准教授の温和な眼差しには、好奇心というよりも最愛の人を案じるような光が宿っていた。黒木准教授は、彼が凱旋帰国以来ずっと女房役を務めている。だから、黒木准教授は、彼のコミュニケーション能力が低かった時期から考えて進歩だと思っているに違いない。また、手先は器用なのに生き方が不器用な彼が、「ゆ…田中先生」と言っていたことに、黒木准教授は気づいていたのだろう。
「何でも田中姓は教授のお知り合いの中に五人もいらっしゃるようでして。何しろ苗字がありふれていますから、それも妥当なのですが。その混乱を避けるためという理由と、アメリカではファーストネームを呼ぶ習慣がありますよね、その両方から名前呼びをしてくださいます」
白々しくも真っ赤な嘘をついた祐樹に、黒木准教授は納得したように頷いた。准教授執務階でエレベーターを降りた黒木准教授を見送り、祐樹は病棟階に向かった。主治医を務める患者さんのベッドを回る順番を、頭の中で考えた。最も気になるのは兵頭さんなので、真っ先に彼の病室へと向かった。夏輝の父・有瀬誠一郎さんは容態も安定しているし、夏輝がついている。万が一の容態急変があったとしても夏輝が看護師を呼ぶだろう。
「兵頭さん、田中です。お加減はいかがですか?」
そう言いながら病室のドアをスライドさせたが、返事はない。
「兵頭さん……」
心臓外科に入院中の患者さんは整形外科のように松葉づえをついて病院探索をしたり、こっそり抜け出して「患者さん御用達」と陰で言われている百巻を超える漫画が壁という壁に陳列してある喫茶店やパチンコ屋に行ったりすることはない。何しろ香川外科に入院するということは、冠動脈が狭窄し、歩くのもままならないという患者さんばかりだからだ。
「ひょ……」
ベッドに近づいた祐樹は思わず絶句した。と言うのも、兵頭さんはベッドの上にちょこんと正座をしていて、何だかお地蔵さんみたいだった。表情の変化は一切ないし、祐樹のことも認識しているかどうかも分からない。そして、何よりお地蔵さんと異なるのは、その目だった。お地蔵さんは優しそうな表情に合った目をしていたと記憶しているが、兵頭さんの目は、何も見ていないどころか、魂が抜けてしまっているのではないかと、祐樹には思えた。虚無の穴と表現するのが相応しいような気がした。
祐樹は精神科については素人よりもややマシというレベルなのは自覚している。それに、救急救命室では躁状態で暴れる患者さんや、ウツが高じて飛び降り自殺をした患者さんの胸を開いたことはある。最愛の人は、呉先生と対等に議論できるほどの知識を持っている。ただ、そんな祐樹から見ても、兵頭さんの危険さは察知出来た。
「あ!広瀬看護師」
急いで病室を出ると真っ先に目に留まったのが彼女だった。広瀬さんは、祐樹に向かって感謝するという笑みを浮かべて深々と頭を下げた。セクハラの件を看護部長が問題視していたことや、もしかしたら臨時教授会が開かれる件、さらに教授会で発言力のある最愛の人が動く予定であることまで、彼女は知っているのかもしれない。何しろ「壁に耳あり障子に目あり」の大学病院だし、看護師のネットワークは蜘蛛の巣よりも緻密に張り巡らされていると聞いていた。
「お願いがあります。私か他の医師が来るまで兵頭さんから目を離さないでください」
彼女が頷くのを確認したのち、普段よりも早足でナースステーションへと向かった。医局でも良かったのだが、戦力になるのはどう考えてもこちらだろう。そもそも、人員の数がまるで違う。ナースステーションの前では、夏輝と三好看護師が何だか楽しそうに話していた。笑顔で祐樹を見た夏輝は、その表情が普段と異なるのを察したのか、そっとその場を離れた。極力平静さを取り繕ってはいたが、空気を読むことに長けた夏輝は、難なく察したのだろう。
「失礼します。緊急事態なもので。教授執務室の短縮番号は何番ですか?」
普段なら黒木准教授に後のことを託して定時帰宅する最愛の人だが、不幸中の幸いか、セクハラ防止条項の作成のために執務室に残っていた。
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