「気分は下剋上 知らぬふりの距離」59

「気分は下剋上 知らぬふりの距離」
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This entry is part 86 of 100 in the series 知らぬふりの距離

「私としては、不定愁訴外来の呉先生を推薦します。まだ若いですが大変優秀な精神科医ですよね。――なんでも血が苦手だとか。手術そのものにアレルギーを示されるかもしれないです。そういう点は我々、特に香川教授の精神科の卓越した知識がおありになるので問題にはならないと愚考いたします。ちなみに、そういう医師としての弱みを持った人間のほうが親しみを持つことができて個人的にも好きですね。教授のご判断はいかがですか?」
 黒木准教授が本音を露わにするのは珍しいなと思った。まあ、「壁に耳あり障子に目あり」と言われている大学病院の中で最も安全なのは教授執務室と言われている。その上、祐樹が呉先生と親しいということも准教授は知っていることから、本音を漏らしても大丈夫だと判断したのだろう。そういう用心深い点も見習わなければならないと思った。結果的に良かったとはいえ、エレベーターホールという誰の耳があるか分からない場所で「セクハラについて」の話題は今思えば、迂闊だったような気がする。最愛の人は、細く長い指を頤に当て、しばらく無言だった。
「ゆ…田中先生の意見はどうなのだ?」
 一応聞かれたけれども、「聞くまでもない」と彼の表情が物語っているようだった。
「黒木准教授のご意見に賛成します」
 彼は凛と咲く花のような笑みを浮かべたのち、秘書へと澄んだ眼差しを転じた。
「不定愁訴外来に私からという電話を入れていただけませんか?」
 彼が秘書にさえ敬語を使うのは、彼女が定年間近という年長者だからだと聞いている。彼が凱旋帰国したときに、「年齢は問わない。実務能力が優れている人」という点から選んだらしい。その秘書はテキパキと受話器を操作している。
 最愛の人と呉先生は二人でケーキを食べに行ったり、祐樹や呉先生の恋人の森技官と四人でバーベキューをしたりする親しい友人だが、秘書を介することによって正式な要請ということを強調したかったのだろうなと思って見ていた。
「香川教授、不定愁訴外来の呉先生と繋がりました」
 秘書の声に、ツバメのような身のこなしで立ち上がった彼は純白の白衣をたなびかせて執務デスクへと向かった。
「呉先生が断ってきたら、詰みますね」
 黒木准教授が真剣な表情で祐樹に囁いた。
「多分大丈夫ではないかと思います。手術に立ち会ってほしいという要望でないのですから。病室でカウンセリングをしたり、薬の処方を行う程度であれば――ああ、飲み合わせの問題もあるので長岡先生にも立ち会ってもらう必要がありますよね。病棟で行うぶんには快諾してくださると思います」
 黒木准教授とひそひそ話をしている間に最愛の人は的確かつ簡潔に兵頭さんの容態を電話越しの呉先生に説明している。パリ大学で行われた学会の演者に選ばれた呉先生は、それが無事成功裡に終わった後、ロンドンに移動し、祐樹の国際公開手術が終わるまで外で待機してくれていた。祐樹が成功術者になった国際公開手術の会場はオックスフォード大学だったので観光も兼ねていたと呉先生は笑っていたけれども、手術会場ではなく外で待つという点が呉先生らしい。
「そうですか。ありがとうございました。明日にこちらの医局に来ていただくということで。時間は――そうですね」
 最愛の人は一瞬だけ間を置いている。
「午後五時ではいかがでしょう?勝手なお願いですが、その時間なら私も田中先生も手が空くと思いますので。はい――それは良かったです」
 最愛の人の話しぶりからして承諾の返事をもらったようだった。
「ゆ…田中先生は、明日の午後五時は大丈夫だろうか?」
 切れ長の綺麗な目が少し案じるような光を宿している。
「はい。大丈夫です」
 黒木准教授は一件落着といった感じの笑みを浮かべている。
「先ほどの看護部長の話なのですが、臨時教授会に提出するセクシュアルハラスメント禁止条項――発案者の田中先生もぜひ草案作りに参加して欲しいということだった。そして、これは個人的な考えなのだけれども、田中先生が考えていた案は『入院のしおり』に書いておく、だったな?」
 彼の眼差しは名刀と名高い日本刀のような研ぎ澄まされた光を放っている。
「はい、その通りです」
 黒木准教授も興味深そうに話を聞いているが口を挟まないのは昭和チックな「教授の女房役」という責務を考えてのことだろう。今は令和だが、病院の中では異なった時代が流れている。先ほど呉先生に電話をかけていた最愛の人の秘書は例外で、いわゆる「職場の花」的な妙齢かつ美人が教授秘書を務めているケースが圧倒的に多いと聞いている。ちなみに病院長の秘書も若くて上品そうな美人さんばかりだったが、何でも嫁入り前の社会経験を積ませるためということで、京都の名士のお嬢様が集まっていた。斎藤病院長はウワサをたてられたことはないが、某教授と美人秘書が男女の関係だというウワサを何度も聞いたことはある。今時、「職場の花」などは時代錯誤極まりないと個人的には思うが、教授たちの中には頭の固い人も多いらしい。
「『入院のしおり』は患者さんに渡す冊子だ。まあ、普通の人は読むだろうが、ゆ…田中先生が言っていたように『転院』という断固とした措置を病院側が取る場合、読んでいないという言い訳が通ってしまうだろう?」

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