「祐樹、あれが、この部屋を照らす最初の月光だ」
最愛の人の声が月の光のように蒼く艶めいて聞こえた。まるで先ほどまで話題にしていたホープダイヤの煌めきに似ているような気がした。
「綺麗な満月ですね。しかし、初めてとは?」
綺麗に剪定された松の木の上に満月がくっきりと照っている。
「今日の月の出は午後四時五十六分で、あの松の木の角度などを考慮に入れたら、今の時間から見えるようになる。試算し、そして三回、検算したから正確だろうと思う」
最愛の人は見事な料理と美味しいお酒を楽しみつつ、「呪いのダイヤモンド」と思われているホープダイヤが実際は「確証バイアス」によるものだと、歴史的な考察を交えながら解説し、その上で月がこの部屋から見える時間まで頭で計算していたということになる。彼は時計がなくても秒単位で時間が分かるという特技を持っている。その面目躍如といったところだろうか。計算式も頭の中で三回も検算していたのだから、これら三つのタスクを――料理は数に入れていないが、涼しい顔でこなしていたことに祐樹は内心で舌を巻いた。もちろん手術中はさらに多くのタスクがあるが、この旅館は完全なデートだ。もっと脳を休めてもよさそうなのに彼はそうしなかった。とはいえ、仕事のときとは異なり、きっと楽しく計算していたのだろうなと思うと、何だか彼らしくて、思わず笑みを浮かべながら冴え冴えと光る満月と最愛の人の顔を交互に眺めた。
「さて、月見だんごに見立てた料理を食べるか……」
そういえば仲居さんはお酒のお代わりと「本物」の月見だんごを持ってきていない。ただ、夕食時ということもあって忙しいのだろう。最近の旅館では人件費と働く人の労力を減らすために、夕食は大広間限定やビュッフェ形式に切り替えていると、何かの本で読んだ。しかし、この旅館では一室一室を回っているようなので、気長に待とう。
「これはいったい何なのでしょうね?」
お箸で摘まんだ、月見だんごにしか見えないものをしげしげと眺めた。
「酒の肴だと仲居さんは言っていたので、塩辛いものだろうけれども……?」
祐樹よりはるかに料理に詳しい最愛の人も、浴衣の襟からすんなりと伸びた薄紅色の首を花芯のように傾けながら祐樹を見ている。最愛の人は光栄なことに祐樹を太陽にたとえてくれた。そんなたいそうな者ではないのだが、今の彼は太陽に向かって伸びる薔薇の茎のような趣きだ。口に入れてみると、黒味噌の中に柚子が薫っていて、歯で噛むとシャキシャキと音がした。そして口の中に広がるこの味は――自然薯だった。
自然薯に罪はないのは分かっているが、どうしてもあの胃の痛みを思い出してしまった。
「祐樹、口に合わないのか?」
最愛の人は、常に祐樹を見てくれている。特に外食のときには祐樹の好きな料理や味付けを覚え込もうとして息を詰めて凝視しているときも多かった。そして、その味付けが食卓に上り、彼の愛情が祐樹の心と胃袋をも満たしてくれる。ベースは祐樹の母が彼に渡した「田中家のレシピ」という名の大学ノートだが、改良に改良を重ねて祐樹がより美味しいと思う料理を作ってくれる。「田中家」とはいっても祐樹の家は根っからの庶民で、母が勝手に名付けた。そのノートには祐樹の好物という欄も多くとってある。それをより祐樹好みにしてくれたのが最愛の人の料理で、今は母のものよりもずっと美味だ。
「いえ、自然薯掘りに行きましたよね?その思い出が脳裏によみがえって」
その後が最悪だったが、それは祐樹の自業自得なので彼には内緒にしている。
「あれも楽しかったな。また掘りたい」
チャンスだと判断した。何しろ自然薯には並々ならぬ思い入れを持っている森技官は毎年行こうと言っていた。呉先生は森技官の乱暴極まりない運転に懲りていたようだったのできっぱりと断るかもしれない。
「そういえば、森技官からLINEが来ていました。かなりお気に召したようで、『来年も一緒に行こう』と。貴方の意見をうかがうのをついつい先延ばしにしていました」
最愛の人の前だというのに、ついつい胃を押さえたくなるのは「あのとき」のストレスを身体が覚えているからだろう。月を肴に飲んでいた人は嬉しそうに頷いたあとでつやつやとした唇を開いた。
「呉先生は来るのだろうか?あの日は車酔いでだいぶ辛そうだったから、懲りたかもしれないな」
案じるような声に鈴虫の鳴き声が重なって聞こえ、妙なる音楽のようだった。呉先生が断固として拒否してもきっと森技官は「自然薯さえあればいいのです」とか言って三本以上掘りそうだ。
「無理強いはできませんが、貴方からも誘ってくださいね。それはそうと、この柚子の香りは素晴らしいですね」
あの時のトラウマが浄化されそうな気がする。そして、心なしか精力も漲ってきたような気がした……。
―――――
◇祐樹が自然薯で胃痛になった話は
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