「生半可な知識だととんでもないことになるそうだ。日本酒については聞いたことがないが、遠藤先生が料亭に行った際、「この料理にはこのワインが合うだろう」と注文したらしい。しかし、和食は隠し味があるだろう?そのせいで、全くワインと合わないどころか、食事もワインも不味く感じたらしい。それに懲りて、料亭に行くときは店の人に必ず聞くようになったらしい。だから、大体の好みを伝えてお任せにした祐樹は正解だと思う」
そういえばカウンター割烹でも普通の茶碗蒸しかと思っていたら、中にウニが入っていたことがある。というよりもウニが主役で、それを引き立てるために卵と出汁の層を作った板前さんの匠の技だろう。あの逸品に合うワインはきっと存在しない。
「祐樹、夏の名残りの白粉花が咲いている。種も出来ているのに、花が健気に咲いているのも、虫の音によく合うな……」
最愛の人の視線を追うと、何だか寂しそうに咲いているのが季節に相応しい。
「白い花というのがいいですね。夏だと赤やピンクの花のほうが映えますが、この季節だと白い花が相応しいと思います。ススキと白粉花が同じ時期に見ることが出来るのもなんだか贅沢ですよね。では、そろそろ、仲居さんが食事を運ぶ時間なので、部屋に戻りましょうか?」
日暮れが近いと分かったのか鈴虫やコオロギの鳴き声が高まって夏の名残というよりも完全に秋の気配だ。
「そうだな。こういう隅々まで行き届いている旅館はきっと料理も美味しいだろう。それも楽しみだ」
こういう旅館の客は、まずお風呂に入りたがるものだ。だから、夕食も今洋服ではなく浴衣がいいだろう。
「仲居さんが来るかもしれないというスリルの中で愛の交歓というのも魅力的ですが、私としては貴方の、その余韻を残す肢体や表情を誰にも見せたくないのです。だから、今は別々に入って浴衣に着替えませんか?」
最愛の人と一緒に入ったら祐樹のなけなしの理性が保てない。そして、愛の交歓の甘い余韻を残した最愛の人を見せびらかしたくなることもあるが、それは主に海外だ。特に二人で行ったシンガポールの広大な公園で愛の交歓をした後に、ラッフルズホテルの名物の「ザ・バー」に行ってシンガポールスリングを飲んだときには、店の客の視線が彼に集中していた。そして祐樹を羨ましそうに見ていた。しかし、日本の旅館ではなるべく避けている。
「分かった。先にお湯に入っていいか?」
祐樹は、最愛の人が折ってくれた精緻な紅葉をいろいろな角度から眺めていた。そして、最愛の人は、先ほどの散策中に祐樹が贈ったまだ青い紅葉の葉を、彼がいつも持ち歩いている黒い革の手帳に大切そうに挟み、ボストンバッグに入れ、ツバメのように軽やかに立ち上がった。最愛の人が使っている手帳は馬具メーカーが前身の老舗ブランドで、まさかその手帳に単なる紅葉の葉っぱを押し花ならぬ押し葉にする用途で使われるとは職人さんも思っていなかっただろうなと思うとなんだか可笑しい。
「もちろんです。ごゆっくりお湯を堪能してくださいね」
彼が露天風呂の扉を開けると、湯気の清らかな香りがこちらまで漂って来、旅情を感じた。といっても京都は水が豊かな分、温泉の硫黄の香りなどはない。
それにしても最愛の人が作ってくれた紅葉は細部まで凝っている。葉脈まで再現してあるのも感心して眺めていた。
「祐樹、いいお湯だった。それに露天風呂は温度が高いはずなのに、ススキが銀色に光っていた」
浴衣をきちんと着付けた最愛の人が、感心したように教えてくれた。
「では、私も救急救命室でのシャワーの要領でカラスの行水を目指します。景色は、貴方と一緒に月見酒を飲むときに堪能します」
彼が作ってくれた紅葉の折り紙は若干の厚さがあるのでテーブルの上に置いて浴室へと行った。この辺りは雪がさほど降らないので、雪国のように猿が温泉に浸かりに来ることはないだろうが、この規模の露天風呂だと猿にも十分スペースはあるなと思いながらシャワーを浴びて浴衣に着替えた。最愛の人から着付けも習っていたので、多分完璧なはずだし、ほどよく糊が効いていて着心地も抜群だった。脱衣所に置いていた腕時計を見ると四時半でちょうどいい時間だ。
「本当にいい露天風呂ですね。といっても、私はシャワーしか使っていないのですが。貴方とゆっくり温泉に入ろうと思いまして。それにしても、秋の花はみな繊細ですよね。それにススキも風情があります」
あえて風流な話をしたのは仲居さんがいつ来てもいいという計算だ。
「失礼いたします。夕食と月見酒のお供をお持ちしました」
仲居さんの声がした。最愛の人は裾も乱さず歩いていって、扉を開けている。
「月を見ながらゆっくりと食事を楽しみたいので、広縁のテーブルに置いてください。この月見だんごは、デザートですか?」
仲居さんは笑みを浮かべている。
「いえ、これは板前が月見だんごに見立てた一品でして、お酒の肴として好評をいただいております。月見だんごがご所望でしたらお持ちいたしますが、如何しましょう?」
最愛の人がまだ座っている祐樹に「どうする」というアイコンタクトをしている。
「せっかくのお月見なので、頼みましょう」
仲居さんが「かしこまりました。お団子部分が草だんごになっているものと白いのがございますがどちらになさいますか?」と確認したら、最愛の人は、切れ長の目をわずかに見開いていた。
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