やっとエレベーターの扉が開いた。通勤時間の電車もかくやというほどの混雑ぶりなのはいつものことだ。しかも車いすや松葉づえの患者さんも乗っているので、車椅子対応の広いエレベーターですら人であふれている。祐樹と柏木先生、そして整形外科の角田先生や菱田先生が乗り込んでドアが閉まる直前、エレベーターホールに続々と集まってきた看護師たちから拍手が起こった。もしかして、祐樹のセクシュアルハラスメント防止策が看護師のネットワークで拡散されたせいかもしれない。
生きた化石のような精神科の真殿教授のような人はLINEを医局で活用していないと、精神科所属の清水先生から聞いているが、看護師たちは共通の趣味や病院内のことについて様々なグループLINEを使い分けているらしい。
「私達は教授執務階ですが、田中先生・柏木先生は何階ですか?」
階数表示の前に立った角田先生が、こちらを振り返って尋ねてきた。どうやら整形外科の麻田教授は、現代の大学病院のあり方について指導しているらしい。それこそ「白い巨塔」が流行った時代には医師が昔の百貨店のエレベーターガールのように、階数表示の前ではなくて奥まった場所に立ち、ボタンを押すのは看護師の役目だったらしい。今では医師が率先して押すのが、努力目標だけれども、実行している科は香川外科や内田内科のような「先進的」な科だけだと聞いている。
「准教授階をお願いします」
普段よりも大きな声で言った。そうでなければこの大人数では聞こえないと判断したからだ。准教授の執務階で降りたのは祐樹と柏木先生だけだった。
「――セクシュアルハラスメントは由々しき問題だが、角田医局長の頭を見たら笑いをこらえるだけで必死だった」
柏木先生は人の気配がない廊下で大きな笑い声を立てている。
「そうでしたよね?脂汗が出るほど、何がそんなに可笑しかったのですか?」
教授執務階の絨毯はふかふかだが、この階は病棟と同じくビニール床シートだし、観葉植物はよく見れば造花だ。こういう点が大学病院のヒエラルキー社会を表現しているなと思いながら柏木先生の笑いの発作が収まるのを待った。
ここが教授執務階だったら呼び出された医師が思いつめた表情で各教授室の前に立っているので、柏木先生の大爆笑は顰蹙ものだろう。
「角田先生はな、以前は頭頂部の髪の毛がかなり薄くなっていて、医局長たちのあだ名はザビエルだった。それがフサフサになっていただろう。カツラなのかそれとも植毛かまでは分からないが、するんなら、段階を踏んで誰にも分からない程度から始めたらいいのに。あー可笑しい」
ザビエルというのは日本にキリスト教を伝えた宣教師のことだろう。
「あれは禿げているわけではないですよ。たしかトンスラと言って、剃っているのです。ただ、確かに頭頂部が薄かった人がいきなり髪の毛が生えたら笑うのも分かりますが」
それにしては、菱田先生の平静な表情はカツラだか増毛かまでは分からないが、着用した頭に慣れてしまっているのだろうか?柏木先生が涙を拭いて、自分の両頬を叩いて気合いを入れている。いつまでも笑っていては黒木准教授に兵頭さんのうつ状態という、最悪手術の延期を考えなければならない報告が出来ない。
祐樹の記憶が確かならば角田先生の頭頂部には白髪もあった。身長差があるせいで自然に見えただけだが、最近のカツラは白髪まで再現するのかと感心した。題名は忘れたが外国の推理小説で赤い髪の人の頭頂部が寂しくなってカツラをかぶって、他の毛は真っ白なのに頭頂部だけが赤毛という誰が見てもカツラだと分かる登場人物がいたなと思いながら黒木准教授の部屋の扉をノックした。
柏木先生も表情を改め、「柏木です。田中先生と一緒にご報告とご相談に参りました」と普段の声で言った。先ほどまで笑い死にしそうなほど爆笑していたのに、この切り替えの早さは優秀な外科医の資質を物語っている。
「どうぞ」
温厚そうな声が返ってきた。「失礼します」最愛の人の執務室の半分程度の大きさで、本棚も「お値段以上」のCMで有名な店で売っているような物だ。上昇志向のある医師だと、次は豪華な教授執務室の主人になってやるという野望を抱くだろうが、黒木准教授はこの部屋で満足している。最愛の人の縁の下の力持ちとして職務を全うすることしか考えていないと、以前聞いたことがある。祐樹も出身は田舎だが、准教授はたしか北陸地方の寒村出身で、ウチの大学の医学部に合格したのは村か町で初めてだったらしい。代々の医師が地元の名士というのはよくある話だが、そこの「ご令息」が地元の医学部しか合格出来ず、黒木准教授は京都に発つときに、名士たちが駅に集まって万歳三唱をしてくれたそうだ。准教授まで上り詰めたので十分「故郷に錦を飾」りに帰れると祐樹に話してくれた。
「実は――」
黒木准教授が淹れてくれたインスタントコーヒーを一口飲んでから、祐樹は話し始めた。
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