「初めましてですよね?心臓外科の田中と申します。これからよろしくお願いいたします」
挨拶を交わしたからには顔と名前は憶えておかなければならない。最愛の人なら一秒も経たずに暗記するだろうが、あいにく祐樹はそんな特技は持ち合わせていない。
「ご丁寧なご挨拶、痛み入ります。先ほどから伺っていましたが、先生のアイデアはとても素晴らしいと感心致しておりました。ウチの科でもその案を採用――いや、麻田教授に意見具申し早ければ教授会の議題にしたいと愚考しますが、よろしいでしょうか?」
整形外科は複雑骨折の患者さんが多い。足を骨折して動けないだけで他は健康といった人なら看護師を「そういう」目で見たり触ったりするケースも香川外科より多いはずで、麻田という教授も頭を悩ませていたのだろう。そんな感じの話し方だった。ちなみに教授会に出席している最愛の人から麻田教授の話題は一切出ない。ということはいい意味でも悪い意味でも突出した存在ではないのだろう。
「それは全く構わないです。主に看護師が被害者になるセクシュアルハラスメントは程度の差こそあれどこの科でも起きますよね」
どこの科の医師かまでは分からないが、エレベーターを待っている医師たちが大きく頷いている。
「もっとも、浜田教授の小児科は別でしょうが。あの病棟はお子さんの患者さんしかいないので。ただ、浜田教授は看護師にも物凄く気さくに接していらっしゃいますので、看護師も医師からハラスメントを受けたと言いやすい空気がすでにあります」
角田医師は尊敬めいた眼差しを祐樹に向けている。
「小児科のハロウィンイベントの画像が看護師の間で回っていたのを見せてもらったのですが、田中先生のコスプレは物凄く似合っていました」
他科の看護師だけではなく医師までも祐樹が「呪いが廻る戦い」の現代最強の呪術師に扮したことは知れ渡っているらしい。
「あれは浜田教授から香川教授に正式なお願いがあって、両教授の意図をくんで嫌々ながらコスプレを了承したのです」
裏話を明かすと角田先生だけでなく菱田先生も獲物を狙う鷹のように目を輝かせていた。
「それでしたら、田中先生は小児科のハロウィンの協力者として親しく話をされるようになったのですよね。それにもともと浜田教授は小児科病棟だけの小さなイベントを企画なさっていたとお聞きしています。看護師をはじめとした病院全体のイベントにし、寄付金を多く集めた功労者は内科の内田教授ですよね?」
病院内は噂の宝庫なので職員が興味を引くような話題ほど物凄い速さで病院内を駆け巡るのは知っていた。整形外科にもそういう情報が回ったのだろう。
「そうです。内科の内田教授とはそれ以前から親しくさせて頂いていますし、浜田教授とはそれ以降、香川教授を交えて親交を深めてまいりました」
二人の目は獲物を狙うヴェロキラプトルのような鋭さに変わっている。当然、祐樹は実物を見たことはなくあくまで映画での印象だが。
「田中先生は、三人の教授と親交がおありになるということですね。でしたら、セクシュアル・ハラスメント対策で『入院のしおり』の文言を付け加えるという議題に賛成して下さるよう、根回しをお願いできませんか?そうでないと『人間関係の問題』と『職場の環境に耐えかねた』という離職理由の看護師の増加を防ぐことは出来ません。ウチの科は離職率の高さで事務局長が麻田教授にチクチク嫌味を言っているのです」
エレベーターホールといういわば公共の場所で話題にするには踏み込み過ぎているように祐樹は思ったがきっとそれだけ深く憂いているのだろう。事務局長はどこの科でも嫌われているのだと思うと祐樹も何だか力がみなぎるようだった。
……最愛の人は、内田教授が熱心に取り組んでいる「医療従事者視点での病院改革」に深く共感している。内田教授はいかにも内科らしい温厚で人のよさそうな顔をしているが、実際は「革命の闘士」という裏の顔も持っている。政治力や実行力は病院長に向いているような気がするが、本人は「病院の看板教授の香川教授のほうが皆も納得しやすいです。人望も十分です。私は陰に回って協力を惜しみません」と言って次期病院長選挙には出馬をしない方針を固めている。浜田教授は人権意識が強い方だというのは、何回か四人で飲みに行って察した。とはいえ、その飲み会は「難しいことは抜きにしてアニメやマンガを語る」というテーマだったが、そういう場でも言葉の端々で本音は分かる。三人ともセクシュアルハラスメントには反対だろう。つまり祐樹が説得に回らなくても教授会の議題になれば「入院のしおり」の改訂に賛成票を投じるはずだ。
「分かりました。三人の教授に話してみて、必要に応じて説得します」
そう断言したのは「整形外科に恩を売る」ためだ。こういう恩の積み重ねが将来何らかの役に立つ。
「そうですか!田中先生、ありがとうございます」
二人して深々と頭を下げている。祐樹の横では柏木先生が脂汗を流しながら笑いをこらえているようだった。
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