「気分は下剋上 月見2025」10

月見2025【完】
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This entry is part 10 of 25 in the series お月見 2025

「はい?」
 営業用の笑みを浮かべて返事をすると、いい年をした仲居さんは頬をほんのりと赤らめた。祐樹は女性からのこういう反応に慣れているが、全く喜ばしいことではない。久米先生に祐樹の本音を話せば、嫉妬と憎悪の念が強すぎて生霊になりそうだ。とはいえ、あのふくよかな体形の生霊は怖いよりもむしろ可笑しさが勝るだろうが。それはともかく女性に好意を抱かれると、無意識にせよ視線が祐樹に集中してしまうので、あまり下手なことはできなくなる。まあ、この旅館に来た目的は二人で露天風呂に入って月見を楽しむことなので部屋からは出ない。食事を運んでくれるのが彼女だとしても、その時間帯だけ「仲のいい友人」として振る舞えばいい。
「お食事の際にお持ちする『月見酒』のご希望を伺うのを忘れておりまして。日本酒・シャンパンどちらがよろしいでしょうか?」
 この旅館はどう考えても日本酒だろうと思ったが、先ほど廊下で見かけた、イギリスの貴族ですと自己紹介されても全く驚かない上品な夫婦のような外国人用にシャンパンを用意しているのだろう。ちなみに彼らは旅館の浴衣を左前に着ていた。それでも行きかう従業員や客は誰一人として指摘しなかった。この旅館ではそんな小さな「間違い」さえも、異国の文化として受け入れるのだろう。
 祐樹は母が着付けの講師をしている関係で「それでは死に装束になってしまう!」と高校のときに怒られた。そのときは「今どきそんなことは誰も気にしないだろ」と内心思いつつ着直したが、国際公開手術を経て日本人の代表みたいな立場に立ってみると母の教えは有難かったと身にしみて分かった。
「日本酒でお願いします」
 彼女は丁寧な仕草で軽くお辞儀をすると「銘柄の希望はございますか?」と質問してきた。月を肴に最愛の人と飲むにはどんなお酒が良いのだろう?最愛の人も祐樹もさほどこだわりは持っていない。
「口当たりがよくて、すっと飲める甘口のお酒なら何でもいいです」
 香川外科には遠藤先生を筆頭にソムリエになっても通用するのではないかと思うほどワインに造詣が深い医師はいるが、最愛の人も祐樹もお店のお勧めのものを頼んでいる。
「承りました。夕食と共に五時にお運びいたします」
 そう言ってくれて助かった。その時間には友達としてのパーソナルスペースをとっておけばいいのだから。
「お膳を下げる時間に布団の用意をお願いできますか?」
 そういう要望もこの旅館なら通りそうな気がした。久米先生が奮発して予約したと思しき部屋は三つのスペースに分かれていて今彼が座っているはずのテーブルのある部屋と寝室は別になっている。あと一つの部屋は予備だろうか?それとも家族旅行などで使うのかもしれない。
「かしこまりました」
 事もなげに了承され、言ってよかったと思った。
「ちなみに、部屋に置いてあった、『露の音』がとても美味しくてお土産にしようと思っています。どこで買えますか?」
 彼女の笑みが深くなる。
「それでしたらこの廊下の突き当りを左にお曲がりくださいませ。当館のお土産コーナーがございます」
 やはりそういう俗っぽいものは隠されているのだなと思いながら礼を言って歩き始めた。廊下からは広い池が見え、大きな錦鯉が数匹、優雅に泳いでいる。その水面みなもにまだ青い紅葉の葉が散っているのも、錦鯉の紅さとよく調和している。最愛の人と後で一緒に眺めようと思いながら分厚い絨毯の上を歩いた。
 「当館謹製 露の音」と達筆な筆書きの「のぼり」が控えめに立てられていた。道理で先ほどの仲居さんが嬉しそうな笑みを浮かべていたのだと思った。祐樹が香川外科のことを褒められると嬉しくなるのと同様に、彼女もこの旅館の一員であることに誇りを持っているのだろう。最も大きな箱と小さな箱、そして中くらいの箱を買った。大きな箱は医局に、中くらいのは祐樹の母にどちらも最愛の人名義で送って貰うように手配した。祐樹はあいにく達筆とは程遠いので、土産物コーナーにいた初老の店員さんに書いてもらった。
 医局には祐樹の下手な字を覚えている医師も多数存在する。久米先生との会話を聞いていた医局員たちは、この旅館にアッシュベリー先生と最愛の人が泊まっていると思い込んでいる。だから、祐樹の金釘流では疑問を持つだろう。そしてもう一つは実家の母に送る手配をした。母は血を分けた実の息子の祐樹よりもその恋人のことをより案じてくれていて、肉親の縁の薄い最愛の人もそれを喜んでいる。今、祐樹の新しい宝物を折っている彼がここにいれば、きっと喜んで母に送るだろう。その代理のつもりで彼の名を書いてもらった。小さな箱を持って部屋へ向かった。
「ただいま戻りました。ああ、完成したのですね」
 テーブルの上に置かれた二つの折り紙を見て少しばかり驚いた。
「お帰り、祐樹。作ってみたのだけれども、気に入ってもらえただろうか?」
 最愛の人は心配そうに祐樹を見上げている。
「はい、とても」
 精緻な作りなのは想定内だったが、先ほど「露の音」を食べている彼を内心で紅葉にたとえたし、先ほども青い紅葉が散っている池を見た。そんなことを彼に言っていないのに、ほの紅い紅葉の折り紙だったからだ。最愛の人と心が繋がっているような気がしてとても嬉しい。

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