「気分は下剋上 月見2025」9

月見2025【完】
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This entry is part 9 of 25 in the series お月見 2025

「この裁縫セットの中に小さなハサミならありますよ。この旅館ならこのような物も用意されているのではないかという予想が当たりました。器用でない人が使う場合はこの糸を切るくらいしかできないでしょうが、貴方なら楽勝でしょう」
 第二の愛の巣とも言うべきリッツカールトン大阪にもこういう小型の裁縫セットがあった。旅の途中でボタンが取れたときに使うようにという気遣いなのだろう。そして、この旅館も「おもてなし」の気持ちが隅々まで行き渡っているのはよく分かった。廊下にも部屋にもお香の香りがそこはかとなく漂っていたし、あちらこちらに秋の花が慎ましげに生けられていた。だから用意されていると予想はしていたが大当たりだった。
「祐樹ありがとう。さて何を折ろうかな……」
 最愛の人は慎重な手つきで和菓子の包み紙をはがしている。普段の祐樹なら包装紙などはバリバリと破るが、折り紙として再利用――いや最愛の人の手で芸術品として生まれ変わる大切な材料だ。祐樹も細心の注意を払って紙を扱った。「銘菓 露の音」という名前に相応しい薄い水色や透明の砂糖っぽいものが、小さな雫の形をしている。きっと雫の形から露を連想させたいのだろう。
「このお菓子の砂糖っぽいものは何ですか?」
 祐樹は甘いものに全く興味はない。最愛の人と付き合ってからは、彼が大好きな、兵庫県の芦屋市に本店がある洋菓子店のイチゴのケーキは食べられるようになった。最愛の人が言うには「この生クリームはさっぱりしていて、どちらかというとミルクっぽい」とのことなので祐樹の口に合ったのだろう。
 それはともかく、興味のないものを覚えておけるほど祐樹の脳のメモリの容量はない。それでなくとも仕事では暗記することが多すぎるので、主治医を務める患者さんとの世間話のために、その人が巨人ファンなら選手名や昨夜の試合の感想は言うが、その患者さんが退院した瞬間に頭の中のゴミ箱に入れる習慣がついた。
「これは琥珀こはくとうだろうと思う」
 最愛の人も白く長い指で宝石を持つように雫型のお菓子を空中にかざしている。
「ロマンチックな名前ですね」
 彼の手とそれを飾るかのようなお菓子に見惚れながら和菓子を口に入れた。表面のカリッとした感触を味わいながら舌に乗せると夜露が解けるような繊細な食感だった。
「あまり甘くなくて美味しいです」
 最愛の人も薄紅色の唇に薄い水色のお菓子を近づけている。テーブルの上には包み紙の折り目を丁寧に伸ばした、上質な和紙としか見えないものが載っている。
「うん!美味しい。中のほろりとした食感が繊細さを奏でているようだな……。もう一個食べたくなる味だ」
 その甘味に切れ長の目を細める顔は、紅葉のひと葉が秋の光に照らされたときのようだった。赤でもなく橙でもなく、その一瞬だけの色彩を宿す美がそこにあった。その繊細な笑みをもう一度見たかったのと、彼が折ってくれる祐樹の宝物の出来れば完成品を眺めたい。
「こういうお菓子はロビーの土産物コーナーで売っていますよね。買ってきます」
 口の中にわずかに残った甘みを薫り高いお茶で中和させるとまるで新茶の甘さのようだった。
「それは嬉しいな。私は祐樹が気に入りそうで、そしてこの旅館の記念に相応しいものを折って待っている」
 彼も祐樹の意図を理解したのか、「一緒に行く」とは言わなかった。
「期待しています」
 そう言いおいて部屋から出た。土産物コーナーは先ほど通ってきた通路では見なかった。一般的な旅館の場合、フロントの近くに設置されて宿泊客の動線に必ず入るように設計されているのだけれども、この旅館は土産物の売上げに重きを置いていないのだろう。部屋の質とサービスの良さで勝負しているのはよい旅館の特徴だ。
 この旅館はもともと久米先生が選んだが、意外に目が高いと感心した。いや、久米先生は脳外科のアクアマリン姫こと岡田看護師と深い仲にはなっていない。婚約はしているのだけれども、性行為が初めての久米先生は救急救命室の凪の時間に祐樹や柏木先生、果ては同い年の清水研修医にまで教えを乞うてはいた。祐樹は女性との経験はないものの、一般的な知識はある。柏木先生は妻帯者だし、清水研修医は学生時代からモテていたらしい。そもそも医学部生だという段階で合コンなどの誘いはひっきりなしだ。祐樹は「田中が来れば女の子のレベルが格段に上がる」と言われ参加費無料で飲み食いしたものだった。その合コンだって、小説「白い巨塔」の教授夫人の出身女子大として設定されている有名なお嬢様大学だ。その機会を逸し続けた久米先生は、祐樹が知っているだけでも三人に聞き「船頭多くして、船山に登る」状態というか、いざと言うときに役に立たなかったらどうしようなどと余計なことを考えてしまうらしい。そういう久米先生にはこの旅館ではなくて、やはりホテルのスイートルームのほうがいいだろう。広いバスタブの中でシャンパンでも飲むと岡田看護師だってその気になるだろうし、ホテルによってはバスタブに薔薇の花びらを散らしてくれるサービスもある。ロマンチックな雰囲気という点ではホテルに軍配が上がる。この旅館は最愛の人と祐樹のようになれ合ったカップルか、もしくはフルムーン旅行などで訪れる人向けだろう。
 そんなことを考えながらフロントで聞かず広い館内を歩いた。何しろ彼が折り紙を作る時間まで部屋に帰らないつもりだったので。
「田中様」
 先ほどの仲居さんに声をかけられた。何の用だろうか?

―――――

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