「この宿も素晴らしいな。お香の香りがどこからともなく漂ってきて、精神が澄んでいくような気がする。それに一輪挿しに飾られた、萩とおみなえしの花が秋に相応しい繊細さだ……」
旅館のロビーに足を踏み入れた最愛の人は満足そうに周りを見ている。
「そうですね」
旅館によっては見た目の豪華さに目を奪われることもあるが、ここは日本の「わびさび」の伝統を重んじているらしい。久米先生のセレクトとしては意外だったが、お祖母ちゃん子だったと本人も言っていたし、岡田看護師に翡翠の指輪を贈ろうとした前科もある。そんな渋い選択は祖母の趣味を受け継いでいるのかもしれない。
「予約した香川です」
着物を着た仲居さんに彼が声をかけると、ロビーにいた従業員全員が頭を深々と下げ「ようこそいらっしゃいました」という挨拶が、見事としか言いようがないほどぴったり揃っていた。まるで合唱のようだった。
「この旅館は当たりですね」
最愛の人の桜色の耳に囁くと彼も長い首を優雅に縦に振った。二人とも小ぶりのボストンバッグ一つだけ手に持っていたが、仲居さんがさりげなく荷物を持ってくれた。一緒に住んでいるのに、バッグを分けたのは同棲していることを隠すためだ。
仲居さんがドアを開けると畳の香りが清々しい。床の間には撫子の花が活けてあった。
「心が洗われるような素敵な部屋ですね」
祐樹が仲居さんに感想を言うと、彼女は嬉しそうに微笑んでいる。
「おかげさまで、日本のかただけでなく、本当に日本文化を愛する外国のお客様にも好評をいただいております」
確かに日本の伝統や歴史まで好きな外国人に気に入られそうだ。「ゲイシャ・フジヤマ・ニンジャ」程度の日本贔屓の客にはウケないだろうが、そのほうが静かでいい。
「お世話になります。これはほんの気持ちです」
最愛の人は、彼女がお茶を注ぎ終わって退室するタイミングで小さな祝儀袋を渡していた。
「ご丁寧にありがとうございます。女将さんに報告して皆で分けます」
深々とお辞儀をしてくれた。
「女将さんはお忙しいでしょうからご挨拶は不要です」
最愛の人が強めな口調で言っている。二人きりでゆっくりと過ごしている部屋に余計なノイズは却って邪魔になると考えたのだろう。
「承りました。ごゆっくりお過ごしください」
仲居さんが出ていくと、最愛の人はふかふかの座布団に正座してお茶を飲もうとしている。祐樹も向かい側に座ってお茶碗を持った。
「こういう旅館でも和菓子は用意されているのだな」
最愛の人の薄紅色の視線の先には「銘菓 露の音」と書いてある包み紙があった。
「こういうお菓子を見ると医局の慰安旅行で行った道後温泉を思い出します。貴方が個室で私を待っていてくださったでしょう?その時間つぶしを兼ねて、和菓子の包み紙で折った小さな鶴。あれは芸術的な仕上がり具合でした」
幹事になれば旅館の選定や部屋割りを決める権利があったので、最愛の人と過ごすに相応しい部屋を探した。同じ屋根の下に医局の皆がいるという危険な香りも愛の交歓の絶好のスパイスだった。ただ、幹事の務めとして宴会は最後まで付き合っていた。途中で退席した彼の部屋に行きたいとは思いつつ延々と飲んで騒ぐ酔っ払いの相手をしていた。
「あのときは、待っている時間に比例して一緒に過ごした時間の愉しみが素晴らしかった……」
最愛の人はセピア色に煌めく視線を揺らしている。
「あの小さな小さな折鶴は私の宝物です。例の地震のとき、落下物でひしゃげてしまっているのではないかと心配していました。やっとマンションに帰り、真っ先に見に行ったら無事でした。折り鶴に込めた貴方の愛情が地震に勝ったのだと思いましたよ」
その後、強化ガラスでできた保管箱を買ったことも、最愛の人は知っている。
「祐樹があんなものを欲しがるとは思っていなかった。単なる手慰みで作っただけで、私なら旅館の部屋にそのまま置いてきていた……」
最愛の人の手先の器用さは世界レベルだ。
「あんな物なんておっしゃらないでください。あの精緻さだけでも素晴らしいのに、私を想って折ってくださったのですから希少さも加わります」
思わず熱を込めて話してしまったが、最愛の人は桜色の笑みの花を咲かせている。
「この紙で何か折ろうか?鶴といえば、亀を連想するのが一般的だろうし縁起のよさも加わるのだけれども、甲羅の立体感を出すにはもっと大きな紙で折ったほうがいい。だからパスだな。それに、はさみが必要だし……」
別に亀などの縁起物に拘っているのではなく重要なのは最愛の人が祐樹のために作ってくれたという事実だけだ。
「亀は諦めます。はさみですか?こういう旅館にはもしかしたら」
飲みかけのお茶碗を置いて立ち上がり、置いてありそうな場所に行った。あればいいなと思いながら。
―――――
もしお時間許せば、下のバナーを二つ、ぽちっとしていただけたら嬉しいです。
そのひと手間が、思っている以上に大きな力になります。
にほんブログ村
小説(BL)ランキング
PR ここから下は広告です
私が実際に使ってよかったものをピックアップしています


コメント